第3章 デンソー・インドネシア・グループおよびミャンマーの歴史
何十年もの間、デンソーは、インドネシアを含む開発途上国の繁栄を後押しするという、より大きな使命の一端を担ってきた。「デンソーWAY」の考え方では、会社が修復力と適応力を持つうえで関係者の果たす役割は重要とされている。すべてのステークホルダーにとって重要で革新的な変化を引き起こす糸口となるからだ。そして、それが羅針盤としてデンソーが困難な時代を生き抜くうえでの支えとなる。ここで、その物語を紹介したい。
黎明(れいめい)期(1960~1990年)

デンソーがインドネシアに進出したのは、同国がちょうど自らの発展の足掛かりを得たころのことであった。インドネシア新体制のもとでは、政治秩序、経済発展、そして新しい知的意欲が生まれていた。
1960年代後半以降、東南アジア全域における消費の指数関数的な伸びに後押しされて、約7~9%という前例のない経済成長を享受していたインドネシアでは、500%を超えるGDP(Gross Domestic Product、国内総生産)成長率が記録された。好調な市場を背景に国際企業が競ってインドネシアでの事業を拡大し、グローバル資本主義が地域に台頭し始めた時期である。



デンソーは、インドネシアに投資した最初の大手グローバル企業の一つであった。田辺守(デンソー)とティア・キアン・タイ(Tjia Kian Tie)(アストラ・インターナショナル社)の活躍により1975年にニッポンデンソー・インドネシアを設立し、北ジャカルタ、スンタに最初の工場を建設したのだ。最初の製品は銅ラジエーターであった。
国が豊かになるにつれて、人々はより良い生活様式を取り入れるようになった。競争力を維持するために、デンソー・インドネシアはエアコン、ラジエーター、点火プラグ、エアフィルター、燃料フィルター、スティックコイル、O2センサーといった、多くの補修部品の製造を開始する(1978~2004年)。わずか10年で、デンソー・インドネシアは自動車製造業界における重要な企業となった。
初期の困難、拡大と変化(1990~1998年)


90年代初頭には、都市圏、特にジャカルタで急速な経済成長が見られた。都市開発が広く行われたが、多くの場合既存のインフラが問題となった。このころまでに、ジャカルタでは1,040万人を超える人々が暮らすようになり、新たな社会経済成長による人口過剰が問題となり、より良いインフラと生活環境の整備が一層の急務となっていた。1996年2月には長く続いた豪雨の後、海面上昇と地盤沈下が相次いで起こり、洪水が引き起こされた。デンソーのスンタ工場もこの洪水の影響を受けた。機械が損傷し、生産の停止を余儀なくされたのである。これは「デンソーWAY」が試された最初の大事件であった。
当時のデンソー・インドネシアの社長の指揮のもと、日本のデンソーの承認を得て、東南アジアのデンソーグループ会社間で協力体制が組織された。工場の復旧を支援して生産を再開するために、日本、タイ、ベトナムから技術者が派遣された。デンソー・インドネシアは、より多くの補修部品の供給を時間内に確保できるように、現地のベンダーとも緊密に協力した。
最終的にデンソーは災害後2週間以内に操業を再開できた。正式な復旧指示がなかったことを考えると、これは驚くべき偉業である。当社はその後デンソー・インドネシアの全工場を対象に、具体的なリスク軽減策、災害管理、防災対策を策定した。この洪水はデンソーの歴史上最大の困難の一つとして引き継がれているが、デンソーの成長における重要な一歩を示すものでもあった。


この10年間、特に1990年代の初頭は、インドネシアは貿易と外国投資に対してより寛大であった。それが地域レベルでも国際レベルでも産業部門を後押しした。競争がより激しいASEAN市場に備え、デンソー・インドネシアは1996年7月にジャカルタ近郊ブカシのMM2100工業団地に第2工場を建設した。これは、ジャカルタ近郊に工場を開設し、当時需要の高かったエアコン用コンプレッサーの生産現場を、まだスンタ工場で製作されていたラジエーターと分離するという決定だった。第2工場ではカーエアコン、バス用エアコン、空気清浄器などのサーマル製品に注力した。

ブランドが成長を続ける中、デンソーは、自動車用ホーンの製造を専門とし、日本の浜名湖電装を親会社とする子会社としてハマデン・インドネシア・マニュファクチュアリングを設立し、北ジャカルタ、スンタにあるデンソー・インドネシア(DNIA)の第1工場で生産を行った。
製品の多様化が進む中、社員のスキルアップが急務となった。デンソーはこの技術的ギャップを埋めるために専門委員会を設置し、ベテラン社員と新入社員のどちらにとっても有効なスキルプログラムを策定した。

1997年から1998年にかけて、当社は再び大きな厄災に見舞われる。アジア通貨危機によって地域の経済が大打撃を受け、多くの企業が方針の転換や工程の合理化を余儀なくされた。市場は暴落し、在庫が積み上がった。デンソー・インドネシアは、複数の社員の一時解雇や望ましくないリスクの軽減を含めた難しい判断を下す必要があった。当社はまたも、さらなる困難を乗り越えて、その修復力を証明した。

1997年、インドネシアに市場を拡大していたデンソーの子会社の一つ、アスモが、アスモ・インドネシアを設立した。専門はワイパ、スロットルコントロール、パワーウインドーなどの自動車用モーター製品であった。
1997年にはさらに、すべてのブランド名にインドネシア語の使用を義務付けたインドネシア政府の新たな方針を受けて、ニッポンデンソー・インドネシアは社名をデンソー・インドネシアに変更した。政府側としては企業レベルでインドネシア語を標準化させるための動きであった。このことで、その後数年間でデンソー・インドネシアをさらに現地化する重要な方向性が示されることになる。
長年にわたり高品質な生産を維持してきたことと、生産ラインに環境保護的側面を採り入れたことが認められ、デンソー・インドネシアは1998年にISO 9002とISO 14001の認証を取得している。
新しい道を切り開く(2000~2020年)
アジア通貨危機で経済が落ち込んだことにより、融資や債務の規制が大きな影響を受けた。しかし経済は徐々に安定し、国民は自らの政府に自信を持った。
人口は増え、都市化が進んだ。2000~2010年にインドネシアの市街地は毎年1.1%拡大した。これは就労機会の増加と経済の進歩を意味する。より高度な教育の機会が拡大し、一般の国民が質の高い教育を受けやすくなった。2000年代を特徴付けるのは、政治と経済の改革と市場行動における著しい変化であり、企業には革新性と競争力の維持が求められた。この時期にデンソーは将来の激動する市場と急速な成長を見越して、人員に一層の重点を置いた。
2002年初頭、トヨタは、カイゼン(継続的改善)の一形態として、トヨタ国際多目的車(IMVプロジェクト)を通じて生産とサプライチェーンネットワークを最適化している。デンソーはこのプロジェクトを通じて、ASEAN全域ですべてのトヨタ車に必要な主要構成部品の調達に貢献してきた。デンソー・インドネシアはこのプロジェクトにおいて、デンソー・ブカシMM2100工場で生産するカーエアコン、ラジエーターなどのサーマル製品に注力している。
このプロジェクトを支援し最大限に生かすために、デンソー・インドネシアでは製品ごとの現地生産を通じてサプライチェーンも巻き込み、常に最高の品質と継続的改善をトヨタ・モーター・マニュファクチャリング・インドネシア(TMMIN)に提供している。

2005年、デンソー・インドネシアは特に非自動車製品の販売、営業および物流活動を管理するために、デンソー・セールス・インドネシアを設立した。このころまでにデンソー・インドネシアでは、多くの主要構成部品を現地で製造していた。供給品の在庫量が増えたデンソーでは、迅速に販路を拡大し、トヨタを含む主要な顧客とより良い関係を築く必要があった。142の店舗と86のオフィスを有するサービスネットワークの構築もインドネシア全土で行われた。これはメカニックがお客様のために知識を向上させてサービス品質を高めるための集中研修プログラムと連動していた。
社員の教育は、この10年間を通じてデンソーの主要な使命であり続けた。製品の品質を日本のデンソーに匹敵させる必要があることを認識したデンソー・インドネシアは、高技能を持つ社員を引き留め、次世代のメカニックと技術者を育成するための新たなプログラムを追加した。デンソー・インドネシアは2006年にKOSEN(高専)と呼ばれるリーダーシッププログラムを開始し、専門学校から優秀な学生を集めて質の高い訓練プログラムを実施し、技能五輪国際大会(WSC)に参加したり業務における特別な配慮を獲得したりするための機会を提供している。
2008年、この使命は地域社会の福祉にまで拡大された。デンソー・インドネシアは、社会、さらには環境への企業貢献としてCSR(Corporate Social Responsibility、企業の社会的責任)プログラムを立ち上げた。デンソーのCSRが重点を置くのは、アストラ社のCSR方針に沿った4本柱の活動(健康、教育、環境、経済)である。
この10年間の最後には、デンソー・トレーニング・アカデミーとグリーンカード新入社員教育プログラムのもとに教育プログラムの整理が行われ、能力、強み、技能の向上が図られている。
デンソー・インドネシアは、すでに30年を超えるその歴史の中で、労働者たちがプロフェッショナルへと変わる姿を見届けてきた。トレーニング・アカデミーは、社員の持続的な専門能力開発を確保するための手段であった。

2010年代初頭までに、デンソー・インドネシアは輸出にまで市場を拡大していた。コンプレッサーは国内外の市場で高い需要を誇っていた。販売と物流の管理のために、2011年にはデンソー・インドネシア・グループとの連携によりティーディーオートモーティブコンプレッサーインドネシアが設立される。

2012年、デンソーの子会社である富士通テンがその製品をインドネシアにまで広げ、富士通テンインドネシアの名前でカーオーディオ、ヘッドユニット、ナビゲーションといった製品を専門に扱う拠点を設立した。

クリーンエネルギーと持続可能な実践に対する関心が高まったことも、この新しい10年間の特徴であった。デンソー・インドネシアはこの時期、正確には2014年に、新工場としてデンソー・インドネシア・ファジャール工場を開設した。これは使用部品の現地調達率70%以上を求める、当時の政府のLCGC(Low Cost Green Car、ローコストグリーンカー)と呼ばれる政策を受けた市場のニーズの高まりに応えるものだった。インドネシアが工業部門・製造部門において持続可能な市場になるために計画された、ブカシのファジャール工業団地の建設もこれを後押しした。環境に配慮した近代的な工場は、デンソーが、質の高い労働力の養成および、持続可能な雇用と製品の創出を重視する企業としての地位を確立する足掛かりとなった。この使命を通じて、デンソー・インドネシアはインドネシア政府との連携を強化することができた。

2014年、デンソー・インドネシアは社会奉仕活動を拡大するために、アジア車いす交流センター・インドネシア(WAFCAI)を設立した。 この非営利団体の目的は、国内の障がい者コミュニティーに車いすと寄付金を提供するとともに、移動の問題に対する革新的な解決策を支援することであった。
新たな世紀が始まってから、デンソー・インドネシアは急速に変化する市場に向き合いながら、その修復力を示してきた。デンソー・インドネシアは、製品製造からスタッフ管理まですべての部門で安定を確保することで、「デンソーWAY」が揺るぎない力であり続けていることを証明している。
デンソー・ミャンマー設立(2014年)
2014年1月、インドネシアにおける最低賃金の高騰と今後の販売状況を見越し、デンソー・ミャンマーを設立した。また、この頃、ミャンマーの安定した政治環境が他国からの投資を呼び込み始めていた。デンソー・ミャンマーはホース組立製品の生産を行い、デンソー・マニュファクチャリング・インドネシア(DMIA)は工場の初期立ち上げと生産段階において、操業が円滑に行われるまでのサポートを行った。
2021年2月の軍事クーデター後、ミャンマーは経済的困難と不確実な情勢に直面した。その結果、政情が不安定になり、各セクターで混乱が生じ、外国と国内の投資家の両方に影響を与えた。予測不可能な政治・経済状況のため、デンソー・ミャンマーは操業停止を余儀なくされた。ホース組立の生産工程は徐々にデンソー・マニュファクチャリング・インドネシアに移行し、2023年に量産を開始した。
未来、そしてその先へ(2020年~現在)
デンソーはスンタにある小さな作業場からスタートした。40年がたち、インドネシア全土に広がる流通ネットワークを持つ国内最大級の自動車部品製造会社になった。この国を襲う様々な災害からの急速な回復を見ると分かるように、デンソー・インドネシアの成功の最大の要因は革新力と修復力である。苦難の度に、困難な時期を導く光として「デンソーWAY」が繰り返し役立てられてきた。
2020年に新型コロナウイルス感染症の世界的流行が発生すると、インドネシア政府は直ちにロックダウンを実施し、感染経路を追跡した。先が見えない将来に備えて多くの企業がリソースの見直しを急いだため、一部の企業は倒産や大規模な人員削減を余儀なくされた。価格が高騰し、売り上げが激減し、移動が制限されたため、誰にとっても困難な時期となった。
この危機を受け、デンソーは生産力を高水準に維持して可能な限り一時解雇を回避することを決定した。デンソーは発生しうるあらゆるリスクを軽減するために、三つのグループ会社から成るタスクフォースを設置した。このタスクフォースは五つのことを担当した。1)政府の規制に準じた健康管理プログラムの維持2)すべての社員とデンソー・インドネシアのコミュニティーに属するすべてのメンバーに対する健康支援の提供3)健康管理プログラムに準拠した日常業務を行うための明確で実用的なガイダンスの策定4)日常的な健康モニタリング制度の実施とワクチンの提供5)毎週のIOMKI(産業活動運営移動許可)への報告。
新型コロナウイルス感染症の世界的流行の期間を通じても業務をフル稼働させていたため、感染症の流行が国内的にも世界的にも懸念すべき脅威でなくなった時点で、デンソー・インドネシアはより迅速に立ち直り、通常の活動に戻ることができた。
「デンソーWAY」によって労働者とコミュニティーに注目が集まり、彼らこそが当社の繁栄になくてはならないよりどころであることが認識された。これが何十年にもわたりデンソー・インドネシアの理念となってきた。デンソー・インドネシアはこうした育成環境のもとで、この先何年も続く持続可能な労働モデルを創出しているのである。