豪亜地域の物語

第5章 デンソー・マレーシア・グループの歴史

マレーシアにおける自動車産業の始まり

1957年にマレーシアが独立した後、1960年代にヨーロッパの企業が完全現地組み立て部品ノックダウン(CKD)自動車生産を開始した。日本企業が市場に参入したのは1960年代後半のことだった。いずれも地元企業との合弁であり、自動車産業は輸入代替産業として発展した。しかし国内市場が小さなマレーシアでは、どの企業もスケールメリットを享受できなかった。

国営自動車会社のプロトン社が設立される以前は、国内市場(乗用車と商用車を含む)の70%以上が日本企業の資本であった。CKD生産のために主要部品が輸入されたが、海外企業との合弁や提携を行う現地企業が一部の部品を生産した。

1980年のクアラルンプール
1980年のクアラルンプール

1980年代には、マレーシア政府が自動車部門を含む重工業の輸入代替政策を開始した。マレーシアの製造業は主に外国資本やマレーシア華人(中国系マレーシア人)によって運営されていた。1971年に始まった新経済政策(NEP)2に沿って、政府は製造業分野へのブミプトラ(マレー人)企業の参入を拡大しようとした。経験不足に加えて、ブミプトラ企業は資源も資金も不足していたため、政府は国営企業(政府所有または政府系企業)を設立して工業化を開始した。

1985年7月9日、初の国民車プロトン・サガ発売
1985年7月9日、初の国民車プロトン・サガ発売

国営企業は1970年代以降の工業化を牽引するうえで重要な役割を果たしてきた。特に、1980年に設立されたマレーシア重工業公社(HICOM)は、重工業の推進役として活躍した。HICOMは主に日本企業と合弁会社を設立しており、その最初の企業はニッポンデンソーであった。HICOMの傘下には、最初の国営カーメーカーであるプロトン社をはじめ、セメント、鉄鋼、二輪車製造の合弁会社も含まれている。日本企業との合弁が進められた背景には、ルックイースト政策の影響や、重工業における日本企業の世界的な存在感の高まりがあった。自動車産業はマレーシアの工業化を牽引する重要な役割を果たしており、政府は資源と資金が限られているブミプトラ企業を支援するために、国営企業を設立して工業化を推進した。

1980年 - ニッポンデンソー・マレーシアの設立
クアラルンプールのウィスマ・リム・フーヨンに置かれた最初の本社
クアラルンプールのウィスマ・リム・フーヨンに置かれた最初の本社

苦境から始まったデンソー・マレーシアの歩みは、1980年4月にまでさかのぼることができる。当時ニッポンデンソー・マレーシアと呼ばれたこの会社は、クアラルンプールのウィスマ・リム・フーヨンにあった。

1983年―生産開始―スターターラインとワイパライン
生産開始―スターターライン
生産開始―スターターライン

日本の支援を受け、3年間にわたって懸命に生産の立ち上げに努めた後、ついにスターターラインとワイパラインで最初の生産を始めることができた。当初8人から10人だった組織の作業員は、現在では1,912人に拡大している。

1983年―ASSB社への最初の製品出荷
ASSB社への最初の製品納入
ASSB社への最初の製品納入

社内の協力のおかげで、ASSB社(トヨタ)への最初の納入が無事に完了して、顧客に満足してもらうことができた。さらにその後、顧客の需要に応えて生産ラインが拡大された。

1987年―プロトン社への供給開始

工業化マスタープラン(IMP)と呼ばれるマレーシアの国民車プロジェクトとその将来計画は、1986~1995年の中長期マレーシア工業化マスタープラン(IMP)の中で策定された。IMPに応えて、新たな国民車、すなわちプロトンプロジェクトが開始された。IMPによって、この期間にプロトンが現地部品メーカーの発展に及ぼす影響が示され、いくつかの政策が導入された。

自動車生産は複雑であるため、マハティール・モハマド(Mahathir Mohamad)首相がリーダーシップを発揮し、プロトンが主導して1983年から日本企業との合弁事業を立ち上げた。

1989年の最初のヒータ生産
1989年の最初のヒータ生産

IMPに応えて、新たな国民車プロジェクトが開始された。プロトン社の設立に伴い、ニッポンデンソーはプロトン社の部品サプライヤーに指定された。マレーシア初の国営自動車メーカーであるプロトン社に関われることは光栄であった。

1992年―サーマルシステム第2工場の完成
サーマルシステム第2工場の完成
サーマルシステム第2工場の完成

将来の事業拡大に対応する新たな生産施設。

1987年にはニッポンデンソーがマレーシア初の国営自動車メーカーとの契約に成功し、ニッポンデンソーが手掛けたプロトン・サガ用製品のラジエーターがマレーシア全土で好評を博した。その素晴らしい品質と手頃な価格が評判となった。この成功を受け、1994年にはサーマルシステム第2工場を開設することができた。新たな工場の拡張に伴い連携とスキルも強化され、1995年のラジエーター生産数は100万台を達成した。

1996年―デンソー・マレーシアに社名を変更

グローバルな社名変更の実施に伴い、社名を「デンソー・マレーシア」に変更した。

1996年―エレクトロニクス工場の移管と初の機械設置

組織能力の確かさと社会経済の安定により、マレーシアは日本国外におけるエレクトロニクス工場の進出先の一つとなっている。戦略的なビジネス環境と国としての電子ビジネスの豊富な経験が評価され、マレーシアが選ばれているのだ。

デンソー・マレーシアは、エレクトロニクス工場における最初の機械の設置に全力を尽くす。

2004年―販売・営業部門オフィスの移転
2004年の販売・営業オフィス立ち上げ
2004年の販売・営業オフィス立ち上げ

需要に応えて顧客に迅速に対応するために、営業部門は顧客に近いグレンマリー・シャー・アラム地に移転した。

2014年~現在―エレクトロニクス部門における事業拡大
2014年デバイス生産開始
2014年デバイス生産開始

近年、様々な車両システムにますます多くの電子制御が採用されている。半導体性能の進化によって安全基準が引き上げられ、完全自動の電気自動車に向けての半導体の需要が増加している。そうした中で、デンソー・マレーシアは、半導体事業を拡大してきた。始まりはモノリシック集積回路のデバイス生産であった。
2016年には世界的にもデンソー・グループとして初のECU「ABILCORE」を生産することに成功した。製造機械におけるはんだフリーという点でもこれが貢献している。

エレクトロニクス工場の移管
エレクトロニクス工場の移管
日本ワイパブレードがデンソーワイパシステムズ・マレーシア(DNWSM)に改称
日本ワイパブレードがデンソーワイパシステムズ・マレーシア(DNWSM)に改称

2019年、デンソー子会社の日本ワイパブレードがデンソーと合併した。組織方針に従って、デンソー・マレーシアとデンソーワイパシステムズ・マレーシア(DNWSM)が協力して知識、技能、専門性を共有し、デンソー基準の中で能力の強化を図った。

2021年―デンソー・マレーシアが1億6,000万リンギットの先進半導体生産に着手
Exposed Package(Ex-PKG)
Exposed Package(Ex-PKG)

デンソー・マレーシアは、高機能性、高効率、高放熱性、小型化、低コスト化の点で優れた競争力を持つASIC、「Exposed Package(Ex-PKG)」の半導体生産に乗り出した。このプロジェクトは、次世代自動車、モビリティ技術、自動運転に不可欠な主要構成部品を開発するために政府が定めた、国家自動車政策(NAP)2020に沿うものでもあった。

この投資を通じて、デンソーが設計した製造設備と高効率・高品質を重視した独自の加工技術を備えた、完全自動化ラインが設置されるだろう。デンソーが提唱する「ヒトづくり(人財開発)」の概念の下、製品知識の継承によって現地社員の技術力も強化されるだろう。さらに、完全自動化ラインの導入により、マレーシアにおけるIoTの展開、ビッグデータ管理、ファクトリーオートメーションなど、インダストリー4.0に向けた動きが加速するはずだ。

デンソー・マレーシアは製造と物流の拠点として、日本のデンソーをはじめ、北米、中国、ヨーロッパなどのデンソー・グループ各社への供給を続ける。デンソーは今後も自動車部品の拡販と輸出に努め、国と地域の自動車産業の成長に貢献してゆく。