2. 烟台首鋼電装有限公司(YSD)の設立
1. 合弁前の準備段階
1993年日本電装は中国市場進出を計画し始めた。当時の中国市場はまだ極めて小さかったことから、事業採算を確保するために特定の自動車集団系列に属さず、全カーメーカーを対象にできる提携を進めた。このことが後の烟台首鋼東星公司(以下、首鋼東星)との合弁による烟台首鋼日本電装有限公司(現・煙台首鋼電装有限公司)設立につながった。しかし、日本電装と首鋼東星の合弁の道は順風満帆とはいかなかった。1992年、自らの技術と品質の問題を解決するため、首鋼東星の総経理杜宝棟(後の烟台首鋼電装有限公司(以下、YSD)初代董事長)ら一行5人が、日本電装北京事務所(後の電装<中国>投資<以下、DICH>本社)を訪れ、合弁の道をさぐった。日本電装側の応対者は北京事務所首席代表吉原博(後のYSD営業部長)と代表丸山昭弘であった。首鋼東星から合弁の誘いを受けたが、当時の日本電装はそれまで中国でのカーエアコン事業の展開について積極的に検討したことがなく、それ以上の話し合いには進まなかった。1993年、首鋼東星は烟台市政府の紹介で他社と合弁についての協議を始めた。双方の話し合いは9カ月間続いたが、この会社は技術支援のみで提携はしても共同出資はしないと表明した。話し合いの最後の段階で、中国進出計画を固めた日本電装から首鋼東星に提携を打診する連絡が入った。最終的に、首鋼東星は日本電装を提携先として選択した。
2. 烟台首鋼日本電装有限公司の設立
1993年10月7日、日本電装と首鋼東星が北京で合弁意向書を締結した。北京第1回交流会に招待された日本電装は、中国市場に進出することを決意した。「夏利」を対象車種として首鋼東星と調整を進めた。氏家長生副社長が代表を務め、日本電装内部と各出資会社の間との難しい調整作業に当たったが、その中で当時の豊田通商古川昌章副社長(後の豊田通商会長)には多大なご支援を賜った。
合弁意向書締結のひと月前、日本電装の石丸典生社長が中国政府の承認と関係者との会合のために北京に飛んだ。同時に氏家副社長が烟台で首鋼東星の杜総経理と会談した。烟台で杜総経理は二つの要望を出した。一つ目は共同出資、二つ目は一刻も早い推進であった。そして同年11月29日、双方は出資比率から生産計画の詳細まで踏み込んで実務的な協議を行った。



当時、合弁会社設立の最大の難関は中国政府の承認を取ることだった。このため双方はこの問題の解決に奔走した。政府の関連幹部から(首鋼東星の苦境についての)理解は得られたものの、やはり最終的に承認を得られなかった。政府の承認なしに会社は設立できず、準備作業が2、3カ月中断となった。だが杜総経理は決してあきらめなかった。山東省政府(済南)と連絡を取って苦しい状況を説明して最終的に登録資本金3000万ドル以下(省級政府承認上限)で山東省政府の承認を勝ち取ることに成功した。山東省政府の全面的な協力の下、商談会が省都済南で盛大に開催され、日本電装の氏家副社長をはじめとする日本側の一行十数人が北京から済南へと向かった。山東省政府は非常に協力的な態度を見せ、日本側の一行には「縁」の字が入った茶器が贈られた。1994年11月24日、合弁事業の当事者が北京の首鋼東星で合弁契約書を締結した。同年12月新会社がついに営業許可書を取得し、首鋼東星、日本電装、豊田自動織機、豊田通商の合弁会社が設立された。デンソーにおける中国初の合弁生産拠点である、烟台首鋼日本電装有限公司(NDSG、現在のYSD)の誕生であった。
会社設立後、最初のターゲット車種である天津夏利向けエアコンシステムは逸注したが、諦めずに市場開拓を継続し受注に向けた顧客提案を積み重ねた結果、瀋陽金杯の金杯ハイエース向けエアコンシステムの受注を獲得(YSDでの第1号の製品)、その後乗用車市場の拡販・建機市場への参入・バスエアコン市場の開拓・広州ホンダ向けエアコンビジネス獲得(2004年に広州電装<DMGZ>へ移管)などを経て売上が飛躍的に拡大した。
2012年、経営効率を上げるため、デンソー、豊田自動織機などの株主による協議を経て、YSDの経営からコンプレッサー事業の生産と販売を独立させ、烟台首鋼豊田工業空調圧縮機有限公司(以下、YST)と分社化する方針を決めた。7月12日、YSTの開業式典が盛大に開催された。デンソーの鹿村秋男専務、豊田自動織機の吉田和憲副会長と鈴木雅晴専務、DICHの山田昇総経理、首鋼東星の杜宝棟董事長、首鋼総公司の劉宗乾部長らの出資関係者幹部が出席した。
3. 再生期~二次創業期
YSTとの分社により、会社がスリム化できたことで、資源をより得意な分野に集中投入し、その領域での発展を追求することができるが、分社した2012年末からの数年間は、リーマンショック後の景気刺激策がもたらしたインフレに対抗する金融引き締めの影響を受け、厳しい経営環境を迎える。YSDは建機業界の低迷により、2013年から2015年まで3年連続の減収減益に追い込まれた。
そこで苦境から抜け出すための経営戦略を打ち出し、新製品の開発や営業活動を精力的に進めた。その中での特に重要な施策は次の4項目である。
- グローバル市場で通用する最新の建機エアコンを開発し受注すること
- 建機エアコンにミニショベルを加えワイドレンジ化すること
- YSDの特徴であるVB炉を活用した製品をリリースし、輸出を増やすことで国内の景気に左右されないビジネスを持つこと
- 農機市場への参入検討を開始すること
そして、分社において現サイトでの敷地の拡大ができない事と、YSTには複数のダイキャストラインが有り移転に不向きであったため、比較的身軽なYSDが新サイトに引っ越し、新工場を建設することになった。また、豊田自動織機が持ち株を譲渡してYSTへ投資したことで出資比率も変更となり、デンソーがマジョリティ会社となった。

YSDは新工場へ移転すると同時に新事業展開を本格化した。またこの時期に中国建設機械業界は、「一帯一路」の中国政府の方針を受け、高速道路、高鉄(新幹線)、空港などインフラ整備や各種建設工事を拡大し、大きく成長した。建機市場の拡大に伴い、YSDのエアコンも販売台数を拡大し、品質、コスト、開発速度を高水準に保つことで、顧客の信頼を得て業績を伸ばして行った。分社後の苦しかった時期に準備をした新HVACや、オイルクーラなどの新事業が成功を収め、YSDは更なる発展を遂げることができた。

2020年には利益率で過去最高を記録した。これらの業績および安全・品質・体質面での指標においてDN本社より高評価を取得、また、世界最大の建機メーカのCAT社より「品質プラチナ賞」を受賞、デンソー社長賞の「最優秀賞」を受賞することができた。コンペチタを凌駕する製品開発速度と低コストを武器に、中国建機エアコンシェアがベースにあると同時に、持続的発展目標である”SDG's”活動等も高く評価されたことから、今回の社長賞はYSDが総合力で勝ち取った賞と言える。