第1章 はじまり

1. 輝く海へ―アンディ片岡の物語

1991年のアンディ・片岡 テネシー州メアリービルのデンソー・マニュファクチュアリング・テネシーで撮影された片岡・アンディ・晃。 片岡は、現在のデンソーであるニッポンデンソーの日本人社員として初めて米国で勤務し、1991年7月から1995年7月までメアリービル事業の社長を務めた。
1991年のアンディ・片岡
テネシー州メアリービルのデンソー・マニュファクチュアリング・テネシーで撮影された片岡・アンディ・晃。 片岡は、現在のデンソーであるニッポンデンソーの日本人社員として初めて米国で勤務し、1991年7月から1995年7月までメアリービル事業の社長を務めた。

誰に聞いても、初めて米国を訪れた時の片岡・アンディ・晃のことを、「そこら中を飛び回っていた」と表現する。そうは言ってもこのデンソー初の北米の社員は、目的地もなくむやみにさまよい歩いていたわけではない。

それどころか、グレイハウンドのバスで全国を回る計画を注意深く練り上げていた。手にしたスーツケースの中には、スタータージェネレーターと、米国の自動車市場にデンソーを根付かせるという大胆な夢が詰め込まれていた。

「1964年に初めてカリフォルニアに来た時、どんなことになるか予想もできませんでした」と片岡は説明する。「誰もデンソーの名前を知らず、多くの人がトヨタのこともよく分かっていませんでした。しかし私は、ここにとどまってお客さまと親しくなる必要があることを、すぐに学びました」

最初の顧客はロサンゼルスよりもシカゴに近かったため、片岡は中西部へと向かい、小さくても自動車と農機に関連するビジネスチャンスを探りながら、わずか数時間の距離にあるデトロイトでより多くの時間を過ごした。

米国中西部

彼は、他ならぬ米国のコーンベルトの中心に拠点を置く農機具の王、ジョンディア社に狙いを定めた。それから1年たたずに125回もの訪問を経て、彼はこのヘビーデューティ界の巨大企業にデンソーの高品質スターターを供給する契約を獲得した。

1971年、片岡はデトロイトに移り住んだ。そこはまだ自動車業界の中心地であり、モータウンの音楽、ヒッツヴィルUSA、ジョー・ルイス、ローザ・パークスの聖地であった。

片岡は、街を囲む都市圏に本拠地を置く、クライスラー社、フォード社、ゼネラルモーターズ(GM)社の3社の名を挙げ、「ビッグスリーの事業を獲得する最善の策は何かを考えました」と語る。「数年後、多くの技術者との話し合いや企画を受けて、デンソーの技術を紹介するデモを行いました」

ダンスホールでの展示会

片岡による展示計画は、それより10年以上前に、当時のデンソーのマーケティング担当マネージングディレクターであった井村栄三(Eizo Imura)により効果が実証されていた。その先駆的なコンセプトは、企業と顧客の技術者を一つの場所に集め、彼らを囲むように製品を展示して、次世代の構想とイノベーションを共有するというものだった。

現在はミシガン州サウスフィールドにある北米の地域統括拠点、デンソー・インターナショナル・アメリカはまだ存在しておらず、ビッグスリーの本社への立ち入りは禁止されていたため、片岡は大胆にも近隣のホテルのダンスホールを借りた。

「最初の年、1974年には、自動車メーカーから100人ほどが参加しました。2年目には訪問者数が2倍になったはずです。3年目までには500人の技術者や営業、その他の自動車関係者が、展示したデンソーの技術を見てくれました」と片岡は言う。

その中に、将来フォード・モーター社の社長となるドナルド・ピーターセン(Donald Petersen)がいた。彼は高性能のコンプレッサーを探していて、デンソーに新しい製品の開発を促した。

「この知らせを日本に送りました。私たちはこの件について話し合い、業界を代表するブランドとビジネス関係を構築する絶好の機会だと判断しました。そこから、キャデラック用インジェクターの契約をGM社から獲得し、クライスラー社とのプログラムを確保したのです。1980年以降、事業は急速に拡大しました」と片岡は言う。

時代の変化、志の共有

アンディ・片岡が到着した頃の米国は、文化、社会、経済の大きな変化を経験していた。彼は日本からやって来た外国人として、前途が多難であることを直感した。しかし自動車業界の多くのキーパーソンとの出会いを果たす中で、デンソースピリットが彼の背中を押し続けた。

「お互いの違いを認識して話し合い、意見をすり合わせることが大切でした」と片岡は振り返る。「日本は日本であり、米国は米国であることを、私も彼らも知っていました。そこから出発することで、お客さまと効果的に会話を交わし、お互いをより深く理解して、関係性がより良いものになりました」

片岡はデンソー北米事業の社長としての職務にも同じアプローチを採用し、会社名がニッポンデンソーだった1970年代初頭から1999年の引退までその姿勢を崩さなかったと、1979年にデンソーに入社したカレン・クローリー(Karen Croly)は言う。

行動がものを言う

「彼は、あらゆる職務レベルの社員やお客さまといかにコミュニケーションを取り、関わるべきかを熟知していました」とクローリーは説明する。「彼はいつも親しみやすく、デンソーとその社員の発展を支えるために進んで話をしてくれました。午後になると、片岡さんが希望者全員にアイスコーヒーを用意してくれました。ここが職場というより家族であると感じさせてくれた、ほんの一例です」

片岡は1997年5月17日、自身がデンソー社員として最も誇らしかったと語る瞬間を体験した。誰もが切望するゼネラルモーターズ社の「年間最優秀企業(Corporation of the Year)」賞を、全世界の3万社を超えるサプライヤーの中から受賞したのだ。 片岡(前列左から2人目)は北米のすべてのチームメンバーに受賞を報告した。
片岡は1997年5月17日、自身がデンソー社員として最も誇らしかったと語る瞬間を体験した。誰もが切望するゼネラルモーターズ社の「年間最優秀企業(Corporation of the Year)」賞を、全世界の3万社を超えるサプライヤーの中から受賞したのだ。 片岡(前列左から2人目)は北米のすべてのチームメンバーに受賞を報告した。

片岡は1997年、自身がデンソー社員として最も誇らしかったと語る瞬間を体験した。誰もが切望するゼネラルモーターズ社の「年間最優秀企業(Corporation of the Year)」賞を、全世界の3万社を超えるサプライヤーの中から受賞したのだ。

2008年、片岡は長年にわたり二つの国の外交関係を築いてきた功績に対して、日本の外務大臣から表彰された。彼は、米国の顧客、サプライヤー、そして全米の地域社会との間に信頼と友情を育んだだけでなく、デトロイトにある日本語学校と日本商工会を創設した一人でもある。

「夢は単なる動機付けではなく、その瞬間に何をする必要があるかのヒントを与えてくれるものです」と片岡は2008年の記事で述べている。「デンソーの社員には、未来への夢を創造し続けてほしいと思います」

片岡が他の社員のためにコーヒーを注ぐ姿が毎日のように見られた。 デンソーに35年間勤務した片岡は1999年に退職した。 1964年に米国の地を踏んで以来、会社は16の拠点で11万3,000人以上の社員が働く企業へと成長を遂げた。
片岡が他の社員のためにコーヒーを注ぐ姿が毎日のように見られた。 デンソーに35年間勤務した片岡は1999年に退職した。 1964年に米国の地を踏んで以来、会社は16の拠点で11万3,000人以上の社員が働く企業へと成長を遂げた。