2. 使命の遂行:北米のデンソー

1960年代半ば、小人数ではあるが勤勉なデンソー社員のチームがアメリカ進出の準備を進めていた時、一人の社交的なアメリカ人ビジネスマンが米国製船外機用のスターターを求めて日本のデンソーのドアをたたいた。
それはマッカラー社のノーム・オーウェン(Norm Owen)で、ボタン操作スターターに関する雑誌の記事を目にし、その詳細を知ろうと突然デンソーの東京オフィスを訪れたのだった。これをビッグチャンスの到来と捉えたデンソーの経営陣は、マッカラー社の事業を管理して取引関係の構築に着手できるよう、部品の設計に携わった片岡晃(Akira “Andy” Kataoka)をすぐにロサンゼルスへ派遣した。
「私は夢を持ってこの素晴らしい国に上陸しました」と片岡は言う。「その夢とは、将来の顧客との信頼関係を築き、世界最大の自動車市場で事業を成長させようとしているデンソーの力になることでした」
1966年3月、小山敬(Takashi Koyama)、千葉正人(Masato Chiba)、岡部隆(Takashi Okabe)がシカゴに営業所を開設した。それに合わせて片岡は、竹本悟(Satoru Takemoto)とともにロサンゼルスに営業所を開設したが、その日にデンソーの歯車が動き出すことは想像できなかっただろう。

エンジンを始動せよ
デンソーの最初の社員が米国にやって来たのが熱気に溢れる1960年代であったことは、幸福な偶然だったかもしれない。この活気に満ちた10年間、デトロイトのマッスルカーはごう音とともに疾走し、さまざまな社会運動がアメリカ全土を席巻し、夢を追う人々がカリフォルニア沿岸を埋め尽くした。
こうした中でデンソーはマッカラー社へのスターター供給を開始し、他の用途の可能性も模索した。
早い段階の成功に後押しされた片岡は米国全土を駆け回り、あらゆる機会を生かしてメーカーとのネットワーク作りを行った。1年もたたないうちに、ヘビーデューティ製造大手のジョンディア社とデンソーの最初のOEM契約を結ぶことができた。ジョンディア社の技術センター所長と面会した後、片岡は丁寧かつ粘り強く100回以上会社を訪問し、ようやく同社の主力である農業用コンバインのスターターの発注を受けたのだ。
「デンソーの品質は非常に安定していたため、契約の2~3年後には、ジョンディア社の機器を使用している農家がデンソーのスターターを要求していることが分かりました。家から遠く離れた畑の中で足止めを食らいたくない、という訳です」と片岡は言う。

デンソーは1974年までに、ジョンディア社が農業用の大型機器を生産していたアイオワ州シーダーラピッズに倉庫を建設していた。最初の拠点が手狭になったため、デンソーは2005年に倉庫、エンジニアリングおよび試験機能、品質、サービスおよび営業の機能を備えた3万5,000平方フィートの施設をウォータールーに建設した。
デンソーは現在も、この北米で初めての「自動車業界」の顧客に、スターターとオルタネーター、先進的なエンジン冷却モジュール、受賞歴のある燃料噴射システムを供給し続けている。さらに、この二つの大規模メーカーは、お互いの信頼と尊敬の上に築かれた大切な関係性を謳歌している。

その頃モータウンでは
1971年、アメリカの自動車産業の心臓部を手中に収めたいと考えたデンソーは、デトロイトに目を向けた。デンソーの高品質な製品をスーツケースに詰めたアンディ片岡は、パワフルで高性能なクルマの全盛期を謳歌していた三つの企業、フォード・モーター社、ゼネラルモーターズ(GM)社、クライスラー社に問い合わせを行った。
これらビッグスリーの担当者たちは当初、このデンソーの強気な技術者を、丁重ながらも冷ややかに追い返した。しかし謙虚で愛想がよく粘り強い片岡は、デトロイトを拠点とするキーパーソンを訪問しては人間関係の構築を続けた。そのうち、少しずつ信頼関係が築かれ始めた。
そして地域のホテルで製品のデモンストレーションを3年間行った末に、とうとうフォード社が彼に声をかけた。その依頼とは、フォード社の厳しい要件を満たす、新型コンプレッサーの開発であった。
「これがデンソーのフォード社とのより大きな事業の出発点でした。そこから私たちはキャデラックのインジェクター事業に取り組んだのです」と片岡は説明する。
「その後、1980年以降、デトロイトの自動車メーカーとの事業が急速に拡大しました。私たちはサウスフィールドに拠点を移し、エンジニアリング能力を高める戦略に取り掛かりました。顧客に置いていかれないためには、最先端の技術が求められました」と彼は続ける。

デンソーでは、1980年代半ばまでにグローバル化に向けた大きな成果があった。後にデンソー・インターナショナル・アメリカのエンジニアリング、営業の拠点へと成長する、最先端のテクニカルセンターの立ち上げである。 この10年間で北米における生産事業も急速な成長を遂げた。1984年にミシガン州バトルクリークでエアコンユニットの生産を開始し、1990年までにはテネシー州メアリービルで自動車用スターター、オルタネーター、インストルメントクラスタを次々に生産した。デンソーは20年余りのうちに、米国の自動車とヘビーデューティ市場に大きく食い込んでいた。

パズルの最後のピース
一方でデンソーの初期の社員たちが、1960年代における別の戦略を遂行していた。これまでに築いてきたトヨタとの関係を生かし、日本で製造され米国で販売されるトヨタ車のディーラーオプション市場で、エアコンの販売を促進することだった。
このエアコンユニットに対する当初の需要は高く、デンソー・プロダクトアンドサービス・アメリカ(DPAM)は1年を待たずにトヨタのエアコンキットをアメリカでの事業に追加した。全米で日本車の販売が増加する中、DPAMは倉庫機能を拡大し、増え続けるトヨタの補修部品の在庫を供給し始めた。
ロサンゼルスオフィスは当初シカゴの営業拠点の支店として設立されたが、すぐに市販自動車部品とモビリティソリューションの大手へと発展した。
1984年、DPAMはカリフォルニア州ロングビーチの10エーカーのキャンパスへと移転し、「MovinCool®」、「DENSO Robotics」、「DENSO First Time Fit™」、「DENSO ADC」など、一連の革新的なブランドと製品を発表し始めた。
その後DPAMはリビルト事業を加え、真のデンソースピリットの下、さらに高品質で費用対効果の高いオプションを顧客に提供し続けている。
米国の巨大な力
1966年の春に米国に移り住んだ最初の5人のデンソー社員の努力によって、デンソーの北米事業の繁栄をまさに基礎から支える柱が打ち立てられた。
1960年代の混乱にもかかわらず、あるいはそのせいかもしれないが、米国はハイテクが打ち鳴らす太鼓の音に合わせて前進し、1969年にはついにニール・アームストロング(Neil Armstrong)が月面に最初の一歩を踏み出した。月面でのこの偉業を世界が目撃した時までには、デンソーはすでにこの国に旗を掲げ、米国の巨大な自動車産業に自らの座を確保していたのである。