3. 個人的な思い出:デンソー・インターナショナル・アメリカのはじまり

DIAM:グローバルな現調化戦略の一環
デンソーがさらに大きな拠点の設立を目指しているといううわさがミシガン州南東部を駆け巡ったのは、デンソーがデトロイト地区に進出して20年近くたった頃だった。それは市場の注意を引くための思い切った一手であり、デンソーが再び自動車業界のニーズを先取りすることを主要顧客に示すシグナルであった。

デトロイト郊外のミシガン州サウスフィールドに新たに設立されたニッポンデンソー・アメリカは、日本のサプライヤーとして米国を拠点とする最初のテクニカルセンターとなり、デンソーにとって日本国外で初の地域統括拠点となった。1985年のことだ。

1996年にデンソー・インターナショナル・アメリカ(DIAM)となるニッポンデンソー・アメリカは、事業を基礎から支える柱となるためのものであった。そのために必要だったのが、現地でのさらに広範で速やかな技術サービスの提供と、成長を続ける北米事業のための統合的な事業システムの構築であった。
「中でも最大の目標は、北米に地域統括拠点を置き、北米のすべての拠点の管理・連携を北米というひとつの市場向けに統合することでした」と、デンソーの元副社長であり著書に『Milestones of International Operations, 40 Years with DENSO(国際業務のマイルストーン、デンソーと歩んだ40年)』がある氏家長生(Chosei Ujiie)は説明する。「テクニカルセンターは米国における開発能力の強化と日本からの技術移転のために建設されました」
研究開発:競争優位性
当時デンソーのグローバル戦略の中心人物であった氏家は、クライスラー社、フォード社、ゼネラルモーターズ社への営業とエンジニアリングをデトロイトの社員が協力して推進する構想を練っていた。彼はまた、新たなテクニカルセンターによって米国におけるデンソーの事業の領域が拡大し、研究と技術開発がそこに加わることを理解していた。
実際このDIAMのオープンは、マーケティング、エンジニアリング、広報、渉外、法務の分野で優れた効率性を発揮する最先端企業モデルとして、すぐに高い評価を受けるようになった。*
さらに、コスト削減と品質向上の両立のために米国の自動車メーカーが新しいテクノロジーとサプライヤーを積極的に求めるようになっていたため、デンソーにとってこれ以上ない絶好のタイミングとなった。
アンディ・片岡(Andy Kataoka)がデトロイトの自動車メーカーへの供給を目指してからわずか19年後、彼はデンソー初の海外地域統括拠点を率いていた。彼の指揮の下、DIAMはすぐに地域をまとめる扇の要、連携の本拠地となる。そして21世紀が近づくにつれて、前例のない世界的な課題に対応するために、地域としての力が不可欠なものになってゆく。
※『Proud Past, Strong Future, A History of DENSO’s First 50 Years(デンソーの誇れる歴史、力強い未来―デンソー50年史)』、146ページ
自動車の街で東と西が出会う――初期DIAMの社員の物語
1985年、日本国外初の地域統括拠点とテクニカルセンターを立ち上げたデンソーは、日本からデトロイトに社員の一団を派遣した。デンソースピリットが浸透し、エンジニアリングと生産の専門知識を持つ人々だ。その多彩なチームに、熱心な米人エンジニア、営業、各機能のスタッフアシスタントたちのチームが加わった。その多くが大学を卒業してキャリアをスタートさせたばかりだった。
以下は、初期のDIAMにおける日々についての皆の記憶をまとめたものだ。
彼ら自身の言葉で、それぞれの物語を体験していただこう。つづられるのは、国際的なチームメンバーとの初めてのいざこざや、言葉が異なる者同士のコミュニケーションにおける工夫、一方のチームがベッドに、もう一方のチームが職場へと向かう13時間の時差、アドレナリンが駆け巡る立ち上げの雰囲気、拡大するデンソーの一員となった共通の機会などである。
カレン・クローリー(Karen Croly)は1979年にデンソーに入社し、さまざまな管理業務を担当した。最近ではDIAM購買チームに所属している。この思い出は2017年6月につづられたものである。
ミシガン州サウスフィールドのニッポンデンソーは、私が入社した時には20人の社員がいて、同じ建物に銀行、駐車場、そしてボウリング場があった。1980年代初めに連絡のために使っていた機械はもう存在しない。ウエスタンユニオン社のテレタイプ端末は、小さな紙のリボンで銀行からのメモを届けてくれた。
日本のサプライヤーとは、電話回線と酸化銀コート紙のシートを用いるDEXの機械を介して連絡を取っていた。シートが1枚出来上がるのに6分もかかり、その間オフィスは嫌な焦げ臭さに包まれた。
ファックスの機械が届いた日は素晴らしい日となった。そのリコーのファックスはそれまで使っていたどの機械よりも速く、きれいで、鮮明だった。ファックスの送受信は新しい体験で、日本人の同僚たちはその仕組みに興味津々だった。ファックスの機械は木曜日に運ばれてきて、全員が研修を受けた。
翌朝出勤し、いつものように配布が必要な前夜からたまった通信文書の回収に取り掛かった。しかしこの日の朝、通信室に入った私が目にしたのは、導入したてのファックスがフロアに――およそ100もの部品に分かれて――整然と並べられた姿だった。
好奇心旺盛な技術者たちが前夜にファックスを分解し、翌朝社員が出勤するまでに元に戻せなかったのだ。サポートを求めたベンダーとの落ち着かない会話を、今でも覚えている。非常に親切なこのベンダーのおかげで、デンソーが「この新しい機械がどんな仕組みなのかを確かめよう」とした唯一の会社ではないことが分かった。
ダグ・パットン(Doug Patton)は1986年にデンソーにヘビーデューティ営業担当課長として入社した。2019年に退職する前には、北米の最高技術責任者(CTO)とエンジニアリング担当副社長を務めていた。
デンソーは約束を守ることで非常に高い評価を得ていた。完成したばかりの新拠点に加わった私は、地球の裏側にいる日本の雇用主にすぐに慣れ始めた。それは人間関係、知恵、経験を尊ぶ、まったく異なる文化だった。私はあらゆるものの長所と短所を詳しく調べてシステムを習得する戦略を採用した。なぜなら、「システムに勝つ」ことはできないからで、これは非常に米国的な試みだ。
生産開始の成功と高品質製品のおかげで、米国の自動車メーカーはデンソーとの仕事のやり方を受け入れ始めた。日本の担当者たちがあまりにも多くの質問をするので、私たちは少々イライラしてしまうこともあったのだ。その結果、次の質問を予測し、自動車メーカーと一緒になって質問を先取りし、不要な質問を押し返すことが仕事の一部となった。
製品が生産に移ると問題は皆無だった。あるマネージャーは私に「デンソーとの仕事は本当に大変ですが、納入開始後には会う必要がありませんね」と言った。これがより多くの製品へのチャンスにつながった。
最初は役割がはっきりせず、それぞれがやるべきことをやっていた。日本の経営陣は魅力的で協力的だったが、手ごわかった。成功は、自分の意見を押し通し、データでそれを裏付ける能力にかかっていた。一度だけでなく、何度も。
日本には「3回挑戦する価値がないならそれは重要ではないが、4回目の挑戦で時間を無駄にしてはいけない」という格言がある。 これにイライラさせられた者が何人かいたが、自分を信じていれば、耳を傾けてもらえるだろう。これは尊敬を培う方法だった。
当初のチームは60対40の比率で日本人と米人社員で構成されていた。各グループには技術専門家と課長がいて、彼らは日本の事業グループとつながりがある出向者だった。初期のあの頃は、デンソーにいる全員と人間関係を築くことができたし、それは素晴らしい気分だった。お客さまと社員が体験できる質というものが、デンソーは他とは違っていた。
ゲイル・ラーク(Gayle Lark)は1987年にデンソーに技術アシスタントとして入社した。助手はそれぞれ何人かの技術者の下で働いていた。タイプライターに続き、各部にXerox GlobalViewのコンピュータが導入された。これは最初のWindows型システムで、アシスタントにもそれぞれの機械が支給された。技術者から手書きで提供された各部への文書を私たちがすべて作成していた。
アシスタントが追いつかないほど規模が大きく多忙になった時、PCが支給された。技術助手が担う責任は、単純なタイプ入力と文書の作成から、人員管理、予算、出張、その他多くの職務を通じたグループの支援にまで及んだ。私たちはテクノロジーのおかげで部門の成長についていくことができた。
初期の懐かしいパーティーの思い出がある。それはDIAMのテクニカルセンターの「講堂」で開かれた。木製のダンスフロアが運び込まれ、DJが雇われ、ヨシ(従業員食堂のシェフであり、すし職人)があらゆる種類の素晴らしい料理をふるまった。それはとても優雅で、最初の数年間は社員一人一人にきちんと包装された贈り物が手渡されていた。パーティーやピクニックなどは絆を深める最高の手段だった。
素晴らしい思い出は他にもある。
日本人社員が離任のあいさつをしていると、よくグループが集まって取り囲み、胴上げをした。
アシスタントの服装の方がフォーマルで、ドレスとスカートを着用していた。男性はネクタイをして、多くが白い会社のジャケットを着ていた。
専用の従業員食堂があってシェフがいたのは素晴らしかった。アメリカのメニューと言えばハンバーガー、ホットドッグまたはピザで、そのすべてにフライドポテトが付いてくる時代だった。
マイクロカー(米粒ほどの大きさの作業車両)がアメリカにやって来た時には、ティム・アレン(Tim Allen)のテレビ番組『Home Improvement』で取り上げられた。シンク・大見(Shink Omi)とマリーン・ゴールドスミス(Marlene Goldsmith)はマイクロカーの「ベビーシッター」として、『Home Improvement』のエピソードの撮影のためにそろってロサンゼルスへと向かった。シンクは、ティム・アレンのサインが入った『Home Improvement』のTシャツをお土産として持ち帰ってくれた。彼は素晴らしい人物で、彼のことを懐かしく思い出す。
デンソーで過ごす時間、人々、彼らと築いた人間関係に、私はいつも感謝していた。デンソーはしっかりした良い会社だ。これだけの年月を経て、正社員のレイオフを見たことがない。常に自尊心があったし、見せかけだけになることもなかった。混在する文化は刺激的で勉強になった。30年以上にわたってキャリアを積み上げるには、最高の場所だった。
ドウェイン・テイラー(Dwayne Taylor)は1986年に技術者としてデンソーに入社した。現在は設計技術者を務めている。
大学を出てデンソーに入社した私は、会社が終身で勤めてくれる社員を求めていることをすぐに理解した。成長し、発展し、困難に立ち向かい、仕事を楽しむことが文化であり、私たちはそれを実践した。
私はわずか6人の小規模なサーマルグループの一員だった。現在では数百人いるグループだ。私たちは事業の拡大、お客さまへの製品プレゼンテーションの作成、RFQ(すなわち見積依頼)への対応、フォード社とマツダの合弁の支援に力を注いだ。
当初、DIAMの技術者は設計変更に焦点を合わせていた。設計と製品に関する質問をファックスと電話で日本に送った。コンピュータはなかった。
新棟にはテストを行う設備が備わっていて、テスト能力はDIAMのオープンの日から強化の一途をたどった。デンソーは風洞とエバポレータチャンバを備えたラボを設置し、エアコンシステムとコンプレッサ駆動モータのテストを行えるようになった。ソーラーテストや四輪駆動も可能で、車両の周りに素晴らしい空気の流れを生み出すのに十分な大きさだった。
風洞は、設計、開発、検認を求める北米の顧客を支えた。お客さまはテストを見てテストパラメータに関わることを希望した。風洞を利用することで、私たちの製品知識と専門知識が大幅に高まった。風洞のおかげでDIAMの技術者はシステムの観点から考えるようになり、製品開発とイノベーションが劇的に加速した。
デンソーのエンジニアリング文化とは、細部に注意を払うこと、問題を徹底的に解決すること、高い期待を持つこと、そして自分たちの仕事が製品開発と最終エンドユーザーに影響することを理解することだと、私たちは学んだ。
日本の社員とともに働いたのは有意義な体験だったし、それは今も変わらない。
デビー・エイガー(Debbie Agar)は1987年に業務補助担当としてデンソーに入社した。
ミシガン州サウスフィールドの拠点には従業員が70人ほどいて、私はそのうちの11人とともに働いていた。パワートレインチームの8人とエレクトロニクスの3人だ。トシ・オオタケ(Toshi Ohtake)がチームを率いていた。
当時は留守電がなかったので、社員が席を外している時は私たちが電話に出た。そのようにしてサプライヤーと知り合うことができた。コンピュータもなかった。午前中の大部分は、夜のうちに受信していたファックスを集め、「CCに入っている」人たちのためにコピーして、郵便箱へと配ることに割かれた。
メモリ機能付きのタイプライターはあった。文字どおりのカットアンドペースト方式でプレゼンテーション資料を作成していた。最終的なコピーを作成する時は、貼り付けた部分の端にテープを貼って輪郭が浮き出ないようにした。週明けのプレゼンテーション用資料を完成させるために土曜日に作業することもあった。
1991年頃、テクニカルセンターに最初のGlobalViewのコンピュータが届くとプレゼンテーションの作成が簡単になり、一層プロフェッショナルな見た目に仕上げられるようになった。問題は、管理者用の1台しかなかったために、予約表で時間の予約が必要だったことだ。
旅行代理店と協力してチケットを予約した。コンピュータがないということは、旅行代理店から渡されるものを受け取って、出張当日のかなり前に紙のチケットを手に入れなければならないことを意味する。スケジュール管理の面でこれは厄介だったし、電話やメールができる携帯電話もなかった。
技術管理のグループは素晴らしく、彼らは今や最高の友人となっている。家族を養いながら働くには最高の職場だった。
ロブ・マーティン(Rob Martin)は1988年に技術者としてデンソーに入社した。現在はエンジニアリングプロジェクト担当次長を務めている。
私が加わった時、そのオルタネーターのグループにいたのは日本人社員2人と私だった。これは当時の典型的なチーム構成だった。両方の文化が一丸となって取り組むための、成長の痛みがあった。
私たちが違いを克服できたのは、成長してさらなる能力を培うという目標を全員が支持したからだった。私たちはその目標に集中し、あらゆる形で助け合った。日本人社員はお客さまと接点を持つために私たちを必要としていたし、私たちは日本と接点を持つために彼らが必要だった。
1988年にテネシー州メアリービルに工場が建設されると、オルタネーターとスターターの未来は明るく輝いた。国内で製品が手に入ることが大きかった。私たちはアメリカでイノベーションを起こすことができた。現在この工場はスターターとオルタネーターの生産を段階的に縮小し、電子部品に移行している。
1994年には、議論してきたオルタネーター補修品について提案をまとめるように、お客さまがデンソーに要望する。「そちらのやりたいことを教えていただきたい。事例として写真と詳細を示してほしい」とのことだった。
それは次のことを意味していた。
35㎜のフィルム付きカメラを使って写真を撮る。
写真を2セット現像する。これに数日を要する。
選んだ写真から必要な部分をハサミで切り抜く。
必要な文章と表をすべ35て手書きする。
修正液や修正テープを使って間違いを直す。
各ページをコピー印刷してお客さまと共有する。
私たちはハサミ、テープ、手書きは得意だったが、テクノロジーの方がずっと好きだ。
デンソーの社員となったことで、今の自分が良い形で形作られた。私は生活のあらゆる面で細部に強いこだわりを持っている。まず耳を傾け、考えて、それから話す。私のコミュニケーションはこうして上達した。
ティム・ローランド(Tim Roland)は、ミシガン工科大学を卒業したばかりの1991年にデンソーに入社した。現在はエンジニアリング担当部長を務めている。
私たちは、これまで誰も聞いたこともないような最大規模の自動車部品サプライヤーだった。DIAMは大きな建物1棟と社員100人ほどでスタートを切った。現在では建物5棟のキャンパスで2,000人近くがテストとテクノロジーに携わっている。
私は新人技術者として設計、図面、テストといった車両システム全体を担当していた。デンソーの経営陣は私たちをサポートして助言をくれながらも、当事者意識を持って自分自身の考えと計画を示すように励ましてくれた。これは他に類を見ないことだった。自動車メーカーで働く友人たちはただ部品を設計していた。
私たちはすべてのお客さまにはそれぞれ個別の対応が必要であることを学んだ。自らの役割をお客さまの求めるものに合わせた。クライスラー社は高度な連携を望み、私たちは文書と製品仕様で彼らを支えた。GM社からは製品仕様が示されはしたが、彼らは研究開発パートナーを求めていた。
GM社のサーマルでは、事業規模とそれによる責任が大幅に拡大された。それはシステムレベルであり、ダッシュボードの裏からボンネットの下まで私たちの事業は大きくなっていった。GM社との連携を通じてお客さまとの信頼を築き、デンソーの専門知識への信用を獲得した。
風洞によってデトロイトの自動車メーカーに対するデンソーの貢献が明確に示された。熱、空気力学、エンジン負荷、フロントガラスの拭き取りの速さ、さらには車両全体までをテストできた。
90年代初頭の若かった頃に出張旅行ができたことは素晴らしい経験だった。コンピューターモデルと風洞以前には、部品をテストするために車であちこち移動していた。ミシガンの北部、ロッキー山脈、テキサス州の砂浜、フロリダ州のアリゲーターアレー、ラスベガス郊外の険しい斜面、さらにはオーストラリアのグラーツにまで足を延ばした。最大負荷、エンジンの加熱と冷却、車に水がかかると何が起こるかを検証していた。
自動車メーカーの技術者とともに、問題を解決し、システムの相互作用のやり取りについて議論した。そして最も重要なことだが、私たちは関係を構築することができた。
私が入社した頃、日本人社員はDIAMに4年間配属されていた。彼らは一日中私たちと一緒に仕事をした後、楽な靴に履き替えて、日本のチームと夜遅くまで働いた。しかしこの地域の専門性が高まり私たちの能力が向上するにつれて、私たちはより多くの責任とリーダーとしての役割を担うようになった。
デンソーでのキャリアをとても懐かしく思い出す。最高のスタートを切ることができた。1991年、私たちは若者たちのチームとして懸命に、しかし強い仲間意識に満ちた暖かな環境の中で働いていた。
ジョン・ヒル(Jon Hill)はデンソーに入社してデンソーの最先端の風洞の稼働と運用を行った。
私たちは何日もかけて風洞設備の問題解決に取り組み、使い方を学んだ。最初に実際のテストを行ったのは1993年2月のキャンピングカーだった。それ以来、フリートウッド社のキャンピングカーからジョンディア社のトラクターまで、あらゆる種類のものをテストしてきた。ダッジ・バイパー初のエアコンシステムをテストしたのも私たちだ。
後に、家族のためにオープンハウスパーティーを開き、釣り糸をつけた模型の飛行機を作って、風洞の風でそれを飛ばした。テックセンター副社長の渡辺さんが風洞に来て、飛行機のコントロールラインで遊んでいたのを覚えている。彼は満面の笑みを浮かべていた。あのオープンハウスパーティーに来ていた子どもたちと話をすると、彼らはその飛行機の展示をまだ覚えていた。
振り返ってみると、私たちのテスト能力は大きく向上した。DIAMは大きな発展を遂げたのだ。
デニス・ドーソン(Dennis Dawson)は新設された法務部の部長として1993年にデンソーに入社した。DIAMの上級副社長、ゼネラルカウンセル、事業部長を務め、2011年に退職した。
アメリカの会社では報告書を作成する際には、調査を行い、長い文書を作成して簡単な要約を付け、それを幹部と共有する。しかし日本の会社、少なくともデンソーでは、私が日本式チャートと呼ぶものを作成していた。
日本式チャートには、評価対象の要素を示す横の列と、個別の選択肢を示す縦の列があった。そしてその枠組みの大事なところとして、重要なポイントに対して問題と選択肢を組み合わせて、二つまたは三つの異なる文字(通常は「X」、三角または丸)で解決を評価し、推奨される選択肢を示した。
それから、その準備したチャート――そして求められた場合に備え、作成したすべての背景資料――を携えて幹部のもとに行き、自分自身の推奨事項から話を始める。このチャートが切っ掛けとなり、さまざまな代替案と、あるものが推奨され別のものが推奨されない理由について活発な議論が引き起こされた。
デンソーの日本人社員は優秀な長期プランナーで、計画は常に私たちのチャートの議論に従っていた。そのレベルでの取り組みは私にとって新鮮なもので、興味深くやりがいのある機会をもたらしてくれた。
私のデスクはブルペン式のエリアにあって、それは私を面接・採用してくれた日本から来た副社長の隣だった。彼の下には面接に参加していた若い日本人の課長がいた。ブルペンでごく普通のデスクに向かう、この非常に控えめな日本人幹部たちがDIAMの主要なリーダーであることに、私はすぐに気が付いた。
私は毎日、社員たちが彼と話し合うのを見た。彼と彼のコーディネーターがDIAMの主要人物であることは明らかだった。驚いたことに彼らは、後々特に重要だったことが判明することになる、さまざまな活動に私を携わらせるようになった。
その日本人幹部はその後私にとって最高の上司となり、日本に戻ってから彼は、世界中のデンソーのコーポレートサービスを統括する部長となった。やがて、あのコーディネーターも私の上司になった。
キャリアの初期にこの2人に出会えたのは、信じられないほど幸運だった。彼らの指導の下で、デンソーでの働き方、日本文化の理解の仕方、成功を収める方法を学んだ。2人とも、私が心から尊敬する人物だ。
最高の思い出のいくつかは、サウスフィールドのキャンパス拡張の時のものだ。法務の仕事が面白かっただけではない。小規模な拠点のスタッフである自分たちが、北米のより大規模なデンソー拠点と統合されることによって、何か大きなものの一部であるように感じたのだ。
どんなものと引き換えでも、デンソーの一員でいられるチャンスを手放すことはなかっただろう。ここの新しい企業弁護士の職に応募するように勧めてくれた前の法律事務所の同僚には、いつまでも感謝している。彼はこれが一生に一度のチャンスだとよく知っていて、私がその決断を後悔することは決してないだろうと言ってくれた。彼はまったく正しかった。
ティエンチン・リュー(Tianjin Liu)は1993年に上級設計技術者としてデンソーに入社した。現在はエンジニアリング担当上級副社長を務めている。
この30年間にわたるDIAMの変化は目まぐるしかった。1993年の私たちのグループには、米国からの3人、日本からの3人の6人がいた。ノートパソコンはほとんど使わず、やり取りは主にファックスで行っていた。私たちはまだCAD 2D設計を使っていて、あらゆる――大量の――図面と仕様書を日本にファックスしていた。
私に声がかかったのは、高度なCAD設計と考えられている3D設計とCatiaの経験があったからだ。私が入社を決めたのは、デンソーが先進的な設計、研修、研究開発を行っていたからだ。1993年のニッポンデンソーはグローバル企業として1次仕入先に位置づけられていた。
私たちは「世界初」のEL(エレクトロルミネセンス)メータを開発した。これは1998年にクライスラー・LHS向けにDIAMによって設計されたものだった。「世界初」のTFTプロジェクションメータも発売した。これは2003年にクライスラー・パシフィカ向けにDIAMによって設計された。
現地に設計チームができてからは、お客さまの信用を獲得するようになり、フォード社、GM社、クライスラー社、トヨタ、ホンダからの信頼を得た。
フォード・レンジャーは、フォード社との最初のインストルメントクラスタ事業であり、クライスラー社に続いてデトロイトのビッグスリーから獲得した最大の新規事業であった。これがDIAMにとって大きな節目となった。その後、トヨタとホンダの北米車両向けインストルメントクラスタ事業を獲得した。
デンソーが現地の設計能力とエンジニアリングを確立すると、デトロイトのビッグスリーの扉が開かれた。直接お客さまに会ってニーズをより深く理解することができた。さらに、現地における設計エンジニアリングは北米に専門の知識と技術が存在することを意味していた。お客さまにとってそれが重要だった。
私たちはミニバン用クラスタで3D設計エンジニアリングを導入し始めた。非効率な古い2Dシステムからの切り替えに取り組んだ。クラスタは複雑だ。試作と製品図面の両方に数多くの部品と何百ものサイズがある。3Dのおかげで、デンソーはより強固な3Dデータを用いて製造時間、工具、金型を改善できた。
私たちの能力は再び大幅に向上していった。