4. DMMI 初期の日々


退職したデンソーのコーポレート・アフェアーズ担当上級副社長スタン・トゥーリー(Stan Tooley)によれば、デンソー・マニュファクチュアリング・ミシガン(DMMI)の「初期」が実際いつ始まったのかについて、何年も議論が繰り返されてきた。
日本国外で最初に立ち上げられたニッポンデンソーの製造の新規事業がバトルクリークだったことは事実だが、その文化の「実際のはじまり」はいくつかの形を取ったのだと、彼は言う。
トゥーリーによると、一部の社員は1983年の「インキュベーター・プロジェクト」がこのはじまりの先駆けだと考えている。この時はニッポンデンソー・セールスの臨時社員60人が、バトルクリーク公団の倉庫でホンダ向けのカーヒーターを組み立てていた。

また、1984年11月、DMMIの初代社長である大岩・ヘンリー・路雄(Michio “Henry” Ohiwa)が金のシャベルを手に、バトルクリークの実際の着工を指揮した時こそが「はじまり」だと主張する、初期の社員もいる。そしてトゥーリーによれば、完成した工場で行われた1986年10月のDMMI一般公開の日は、間違いなく、大岩が同社をアメリカの自動車業界に正式に披露した記念すべき日であった。
この10月の一般公開イベントには、サプライヤー、顧客、政治家、当時のミシガン州知事ジェームズ・ブランチャード(James Blanchard)など、1,000人を超える招待客が出席した。集まった人々の中には、その数カ月前にDMMIが開業した際に常勤の社員となっていた60人の臨時工もいた。
トゥーリーによると、大岩は自ら多くの時間を費やして一般公開の計画を立てていた。社長はこのイベントを、「新会社のある種のはじまりであり、DMMIにふさわしい新たな文化の最初の火付け役でもある」と表現していた。 大岩の理念は、日本と米国の労働慣行の最も良い部分を生かした、ハイブリッドな管理体制の構築だった。
この文化の融合は当初から明らかであったと、トゥーリーは言う。大岩が口にした「優秀な社員が優秀な会社を作る」という有名な言葉は、その顕著な一例だ。DMMIは1986年に社員への投資を行い、12人のチームリーダーを日本に派遣して、彼らが担当分野を学び、組付ラインの手順を理解し、日本の管理方法を確認できるようにした。
「彼らが米国に戻ってくると、報告会を開いて、ここでは『どのような実践』が有効で、何を切り捨てるかを見極めました。QCサークルから制服や帽子、朝の集団体操からオープンオフィスのコンセプトまで、非常に多くのことを取り上げました」と彼は言う。
「工場がまだ土間だった」1985年11月に雇用されたトゥーリーは、会社の進化を「最前列」で目にしてきた。「4人の日本人社員と私がいました。倉庫のフロントオフィスには白紙のメモ帳が載ったデスクが一つと、ファイルキャビネットが一つありました」と彼は説明する。トゥーリーと大岩に加えて、他の社員としてジーン・兵藤(Gene Hyodo)、尾上・フィル・治(Osamu “Phil” Onoue)、土居・デニス・高士(Takashi “Dennis” Doi)がいた。
社員の数は瞬く間に増えた。バトルクリーク地区はかねてより景気が低迷していたため、トゥーリーによると、かなり多くの人材の中から選抜することができた。第1弾となる大規模採用では、400人の定員に対して8,000人を超える応募があった。
トヨタを主要顧客として、工場は繁栄した。1991年に「DMMIが3,000万ドル規模の拡張を行い、社員をさらに250人追加して、社員食堂を拡張し、レクリエーション施設を拡大し、医療センターを建設しました」とトゥーリーは語る。
「同じ年、『インダストリーウィーク』誌の『アメリカズ・ベスト』賞でDMMIが全米トップ10製造施設の一つに選ばれました」とトゥーリーは言う。「そして長年にわたり、他にも多くの顧客品質賞や納入賞を受賞しています。例えば『デトロイト技術協会優秀業績賞(Engineering Society of Detroit Outstanding Achievement Award)』や、お客さまの品質管理サークル賞など数々の賞です」
大岩は地域社会への貢献を大変重視しており、その結びつきは現在まで続いていると、トゥーリーは語る。DMMIはさまざまな非営利団体や活動に貢献してきた。この中にはボーイスカウトとケロッグ社が共同支援した地元の高校向けの数学・科学プログラムが含まれており、地元のすべての学校に教育キットが提供された。

「地域製造トレーニングセンターもDMMIの誇りです。バトルクリークのほとんどの企業をサポートする独立した建物で、デンソーのロボットを備えています」とトゥーリーは言う。
バトルクリークの工場はユナイテッド・ウェイの活動に積極的に参加しており、1986年には3万ドルという驚異的なマッチング・プログラムを達成した。その年大岩は、「ユナイテッド・ウェイが活動を続けるために必要なボランティアの労力と財政支援の確保は、責任ある市民である私たちにかかっています」と社員に語った。
トゥーリーは、大岩の後を継いだ何人もの他の日本人社長も称賛される必要があると語る。「この中には、太田・ベン・和宏(Kazuhiro ‘Ben’ Ohta)(日本のデンソーの副会長となり、現在も活気があるバトルクリークのシティ・ライト・フェスティバルを立ち上げた人物)、最終的に専務取締役まで昇進した川合・サム・峰夫(Mineo ‘Sam’ Kawai)、後にデンソー本社の社長となる深谷・ジョージ・紘一も含まれます」
DMMIの最初のリーダーとして、大岩が初期に与えた影響は忘れられないものだったと、トゥーリーは言う。「たとえ、英語が得意でないことを非常に気にしていたとしても。だからこそ彼は毎日時間を割いて工場に入り、すべての社員に話しかけていました。彼は英語を上達させて、社員に会っていました」
「それがヘンリーという人でした」と彼は締めくくった。