5. DMATの謙虚なはじまり、協力の精神

1995年7月11日、デンソーのアセンズ工場におけるセラミック製品部門の正式な起工式に先立ち、デンソー社長のカート・下津氏が現地に酒を注いだ。燃料噴射部門の起工式は、ほぼ1年後の1996年7月9日に行われた。
1996年、機械工学の学位を持つオクラホマ州立大学のカウボーイが一人、文字通り何もないところからデンソー・マニュファクチュアリング・アセンズ・テネシー(DMAT)の施設を立ち上げるために米国を横断した。
「DMATのキャンパスは存在していませんでした。私が仕事を始めた時、ここには何もありませんでした」とDMATの製造担当部長ジョン・シーヴィ(John Seavey)は言う。28歳の時、彼は数台のデスク、電話、1台のファックスから成る仮設オフィスで、他の4人のデンソー社員に加わった。
「あのファックスは大活躍しました」と彼は言う。「毎日、ほとんど一日中、日本との情報のやり取りに使っていました。工場の立ち上げで忙しい時期でしたが、懸命に働いて1年後に最初の出荷分を送り出しました」
「当時工場にいた私たちの多くが20代前半でした。皆ここに定住し、子どもが生まれ、地域社会の一員になりました。事実上一緒に育ったようなものです」と彼は笑う。「妻と私はここで2人の息子を育てました。妻は町の小学校に併設された幼稚園で年中組の子どもたちを教えています」
シーヴィは、この数十年の間に起こった大規模な事業拡大は想像もできないものだったが、その成長が彼を27年間ここにとどめた一因だと語る。
「ビジネスの点でも組織的にも、私はこの環境で『次にくるもの』に関わりたいと考えています。ここでデンソーの進化を目の当たりにできたのは刺激的で楽しい体験でした。そしてここにとどまっているもう一つの大きな理由は、一緒に働いている人たちです。私たちにはあの仮設オフィスから進化したDMAT独自の文化があり、全員がその発展に一役買ってきました」と彼は言う。
彼によると、DMATはデンソー・マニュファクチュアリング・テネシー(DMTN)の分工場としてスタートしたが、「2003年春に法的にメアリービルから分離して、独立した事業体となりました。いわば円満離婚でした。分離した当初はここで、人事、会計、安全を含むあらゆる機能を模倣しました。あちらの会社にあった部門はすべて、こちらの会社にもありました」と彼は説明する。
「しかし、5年ほど後にDMTNとのリソース共有に戻り、いくつかの主要な機能の重複を避けることができました。そのおかげで実際に私たちは、実践と組織と成果の標準化を伴うOne DENSOの理念を、より適切に遂行することができたのです」と彼は言う。
「私たちが全体的なデンソー・カルチャーの一部である一方で、DMATは他の工場との協力で特に知られています」とシーヴィは言う。「私たちはDMTNほど大きな会社ではありませんが、積極的に協力する姿勢が持ち味です。組織全体が非常によく機能しています。そして、日本のマザー工場との強いつながりがあります」

デンソーが長年にわたってアセンズで事業を運営してきたことで、工場が近隣の学校やスポーツ団体、ユナイテッド・ウェイなどに対しても進んで「還元」を行い、地域社会の仕組みの中に重要な存在として浸透してきた。「高校のバスケットボールコートにもフットボール場の横断幕にも、デンソーの名前が記されています」と彼は言う。
デンソーの扉の内側に地域社会を招き入れることも重要な事業戦略であり採用戦略であると、シーヴィは言う。「特に子どもたちに自分たちの仕事を見てもらいたいので、学校の会社見学を受け入れています。すべてが明るく清潔で、床に落ちたものでも食べられるほどであることを見てもらいます」と彼は説明する。
「子どもたちを工場の現場に連れて行き、どのような部品を製造しているか見学してもらいます。今後は自動案内車や、使用している他のロボット技術にもスポットライトを当てたいと思います」と彼は言う。
「子どもたちに新しい未来を思い描いてもらいたいので、チェスや三目並べ、フォースクエアなどのゲームでロボットと対戦してもらうことも考えています。このアセンズに、収入の良い技術職があることを紹介しています」

2016年4月27日、デンソー初の北米エコパークがテネシー州アセンズの施設にオープンした。
