序章 立志の時代
1. 電装品の事業化
1935-
(1)自動車生産への着手
- 1935年
- 豊田喜一郎は、佐吉翁譲りの報国の精神で自動車生産に乗り出した。1935年には乗用車とトラックの第1号を完成させたが、問題は電装品の品質であった。


デンソーは令和の今、「環境」と「安心」を「事業の大義」として掲げ、「人々の幸福への貢献」に総力を挙げている。会社の存在意義として、デンソーは様々に社会への貢献を語るが、なぜそこにこだわるのか。
そのルーツをたどると、デンソーの母体であるトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)、さらにその母体である豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)の創業者、豊田佐吉翁の言葉に行きつく。
「わしは織機を発明し、お国の保護を受けて金を儲けたが、お国のためにも尽くした。喜一郎は自動車をつくれ。自動車をつくってお国に尽くせ」
佐吉翁は、長男の喜一郎に「自動車の製造」を託した。自動車の研究は、豊田自動織機製作所の一角で行われた。1933年9月に自動車部門が発足し、苦労を重ねたが、早くも1935年5月にはA1型乗用車、8月にはG1型トラックの第1号を完成させた。
難問とされたのは「電装品」であった。短期間で自動車を完成させるため、電装品は外国製品を採用した。その背景には、次の言葉のような喜一郎の方針が大きく関わっている。
「自分の製造したものに対して自信を持つことは、製作者として一つの喜びでもあれば、また必要なことでもある。しかし、いかに自信があっても、これを社会に出してみて万人がこれを認め、また現実にそれが満足に動いているかを見極めなくては、自信を持ってはならない。それは自信ではなくてうぬぼれである。私は製品に自信が持て、世間もまたこれを認めて使用してくれるようになれば自家製品を使う。自信もなく世間も疑問に思うような時期は、自家製品は遠慮して外国製品を使う。そのうち本当に自信のある自家製品ができたら切り替えるつもりである」