第1章(1984~1998年) インド進出 ― すべての始まり

2. 初期の課題、改善、能力の向上

(1) あきらめなければ勝者になれる ― DNINの財務課題と工場閉鎖を乗り越える

インド経済の自由化とデンソーの技術による事業拡大
インドの二輪業界を巡る状況
  • 1989年、急成長する輪事業に対応すべく、ハブとしての多角化が行われた。この時掲げられたスローガンは「Think Globally – Act Locally(グローバルに考え、ローカルに行動する)」。
  • 1988年、海外拠点への輸出も開始:インドネシアのデンソー海外拠点に部品を輸出
  • 1989年、ファンベンチレーターの追加により製品構成を拡大。
DNIN労働争議と解決

高い輸入コストや為替レートの変動など、チームは数多くの困難に直面した。高品質な製品を提供するためにはハイテク部品の輸入が重要だったが、1986年には日本円がインドルピーに対して1984年に比べて40%上昇したため、原材料の調達がますます困難になった。しかしDNIN(デンソー・インド)のチームは決してあきらめず、品質面で妥協することなくコスト削減プログラムと現調化に粘り強く取り組んだ。この時、日本の会社と同じ部品を確実に製造できるようにするための現調化に焦点が当てられた。これがインドへの新たな知識と技能の導入だけでなく、部品輸入における日本の工場への依存軽減へとつながる。

1989年、試される団結:一時的な痛手の克服

1989年10月、円満だった社内の雰囲気が初めて崩れ、工場は46日間の閉鎖に追い込まれた。会社の評判が危機にさらされたが、チームはコミュニケーションを取り、和解する決意をした。熟慮と知恵を頼りに、社員全員がこの険しい時期を乗り越えようと力を合わせた。

めったになかったことだがメンバー間のコミュニケーションと理解が断絶され、DNINの評判は危機にひんした。供給ラインの維持が非常に大きな課題となった。対話によって局面を打開するための環境が作り上げられ、多くの説得と忍耐の末に、行き詰まり状態が打破された。この険しい時期を乗り越えるために社員たちが示した熟慮と知恵は見事だった。その連携と支援は称賛に値する。

顧客に対するDNINの揺るぎない献身

この騒然とした時期に、顧客は心配そうに進展を見守っていた。地元サプライヤーからの多くの支援と、その敷地内に設置された臨時の組立ラインのおかげで、DNINは製品を供給し続けることができた。製品を製造できるように、主要な顧客が臨時の生産ラインを提供し、サポートしてくれた。

日本の親会社も特別配送を実施してこの努力を支えた。そのおかげで信頼性が保たれただけでなく、DNINは逆境の中でそれをさらに強化した。

1990年、地平の拡大

1990年末、製品構成の急速な拡大に伴い部品と原材料を輸入に依存したことで、DNINの事業は悪影響を受けた。この時会社は、社員の雇用を守るために海外市場への展開を積極的に開始し、インドネシアのグループ会社に部品、具体的にはスタータハウジングとフレームスタータエンドを輸出し始めた。

レジリエンス、献身、チームワークによってチームは数え切れないほど多くの困難を克服し、驚くべき旅を続けた。そして世界トップクラスの製品を生産するための努力を続ける決意を固めた。

二輪車革命

ヒーロー・ホンダ社、TVSスズキ社、エスコーツ・ヤマハ社の革新的な製品によって二輪車市場が大きく変動する中で、DNINは製品構成を拡大するチャンスをつかんだ。自動車産業の活況を背景に、マグネト、点火コイル、CDIの導入によってデンソーは二輪車セグメントへの参入を果たした。