第1章 創業の時代

1. 苦難の船出

1949-

(2)労働争議から得たもの

1950年
創立の翌年、労働争議が勃発した。労使交渉は熾烈を極めた。厳しい言葉も飛び交ったが、会社と社員を思う本気の主張であった。最後には労使双方に、運命共同体の気持ちが生まれた。
ピケを張る組合員
ピケを張る組合員

分離・独立した当時は、ドッジ・ラインが猛威を振るい、自動車業界では賃金の遅配や分割払いが続いた。当社も可能な限りの経費削減に努めたが、事態は一向に好転しなかった。

1950年3月31日、当社は473人の人員整理を含む会社再建案を発表した。これに対し、労働組合側は、人員整理撤回の要求を柱とする闘争突入を決定した。

深掘り会社再建案
1950年3月31日の経営協議会において、「会社の整備について」と題される会社再建案の概要が説明された。
まず、生産計画を5月(2,500万円)から8月(3,300万円)まで決定した。基本方針として、販路の拡充、売掛金回収の強化、生産の合理化、実働8時間制の採用、経費の節減強化などを掲げるとともに、人員縮減方針を打ち出した。
「会社は一昨年末より、人員過剰となることを懸念し、増員をくい止める様努力してきたのでありますが、配置転換あるいは時間延長等実施しても思うにまかせず、…… 刀折れ、矢尽くるの有様と相成りましたので、断腸の思いでありますが、涙をのんで一部の方々には勇退を願わねばならないことになったのであります」と、経営難による人員削減の必要性が全従業員に向けて訴えられた。

会社側を代表して労働組合との交渉の矢面に立ったのが岩月達夫であった。当時労務担当取締役を務めていた岩月は、昼夜を問わず一人で労働組合に出向き、苦渋に満ちた決断に至らざるを得なかった会社の状況について、連日必死の説明を試みた。

岩月はストライキで取り囲まれ、デモを起こされ、交渉では罵倒に近い厳しい言葉まで掛けられた。それでも懸命の説得を続けた。
「船は難破しかかっている。下船する人がいなければ、一人も助からなくなるばかりだ。この船をなんとか沈ませないために、会社側の提案をのんでほしい」

最後まで解雇はいやだとがんばっている人々のところへは、直接出向いて話をした。一生懸命あらゆる手段と努力は尽くしたがもうしようがないのだと、手を突くこともあった。

激しい争議を重ねるうちに、やがて従業員の側にも「やはり会社が栄えてこそのお互いだ」という認識も生まれてきた。

岩月の説得が実り、1950年4月29日、組合側は涙をのんで473人の人員整理を受け入れた。29日間にわたった長い争議は、ようやく終結した。

創立早々、極めて厳しい経験となった。しかし、当社の経営者、従業員ともに、その後の当社の価値観の核心となる大切なものを得た。「労使協調」と「総力結集」がいかに大切か。それがお互いの腹に落ちた。

深掘り岩月達夫の述懐(運命共同体)
岩月達夫は、後に次のように述懐している。
「長い争議の過程を経た結果、やはり会社が栄えなければ従業員も栄えない。会社あってのお互いだ、しっかり会社の成績を上げなければどうにもならんのだという自覚が生まれてきました。両方があの争議を通じて、精神革命を起こしたというわけです。ですから、以来『運命共同体』という言葉を使っておりますが、要するに経営者と労働者との階級闘争じゃないんだ。やはり一つの企業というもののなかでの構成員として経営者と労働者があり、その両者が企業を発展させて、そうしてお互いの生活の向上を図っていかなければならん。生活が良くなるも悪くなるもお互いの努力次第で、共同の運命である」