第1章 創業の時代

7. 開放体制への対応

1949-

(1)事業部制の導入

1963年
国際競争の本格化に備え、当社は1963年に「事業部制」を導入し、権限委譲を進めた。これは「トップ集中型から分散型へ」という、経営の大きな転換であった。そしてそれ以上に、社内の意識改革でもあった。

1960年代に入ると、日本に経済の自由化を求める欧米からの圧力はいよいよ高まった。

自動車に関しては、完成車・部品の貿易の自由化も厳しいものであったが、さらにその後に予想される資本の自由化は、もはや脅威であった。

深掘り資本自由化の脅威
日本に先立ち、資本自由化が進められた欧州では、米国ビッグスリーが資本上陸し、たちまち欧州の自動車業界が欧州民族系資本とビッグスリーの欧州工場とに再編・集約されてしまった。
欧州メーカーに比べて脆弱なわが国の自動車業界は、ひとたまりもないと考えざるをえなかった。とにかく、自動車業界は懸命に体力増強に努めるしかなかった。当時のトヨタ自動車工業の石田退三社長の言葉、「自分の城は自分で守れ」が業界の共通認識であった。
電装時報(1963年1月)
電装時報(1963年1月)

当社はここで生き抜くためには、まず技術開発によって、欧米に伍していけるだけの競争力ある新製品を創出しなければならなかった。さらには、それを実現しうる高能率な生産設備の開発も必要であった。

そのためには、デミング賞への挑戦を通して強化した品質管理体制を基盤として、さらに経営全体の効率を一段と高めなければならなかった。

当社は、これを「科学的管理法」の導入によって実現しようと考えた。

具体的には、目標管理を通して組織能力を最大に発揮できる「事業部制」が有効ではないかと考えた。当時、事業部制は、米国ではGM社、フォード社、クライスラー社(現・ステランティス社)、GE社など多くの有力会社が取り入れて事業を発展させている、注目の新経営方式であった。

当社は、1963年に「事業部制」を導入した。主要製品別に七つの事業部を設立した。各事業部には、設計から生産、検査に至る一貫した機能に加え、長期事業計画を立案する責任と権限を与えた。

参照:制度導入時の事業部

当社にとって事業部制の導入とは、ただの組織改編や流行りの経営方式への乗り換えではなかった。これは組織改革と権限委譲という形をとった、経営者・従業員の意識改革であった。

当社は創立以来14年にわたり、林虎雄社長以下の経営陣が卓越したリーダーシップを発揮して苦難を乗り越え、事業を成長させてきた。

しかし、事業規模の拡大とともに、もはやそれだけでは限界が見えてきた。事業部制を導入することで、「トップダウンによる経営」とは、思い切って決別する意思を表明した。

各層の従業員には自らの意思と責任感で仕事のリーダーシップを発揮し、自分も会社の成長を支えるのだという気概を期待した。同時に、全従業員には大きな活躍のチャンスを与えるという改革でもあった。

深掘り事業部制導入の意義
事業部制導入により当社は何を目指したのかについて、これを主導した岩月達夫は、次のように語っている。
「トップマネジメントだけがイニシアティブを取る時代は終わった。全従業員が自らの仕事に対する責任、企業に対する責任感とそこから出るイニシアティブを発揮するような体制が企業には必要です。経営共同体では、従業員の一人ひとりが、経営者を含めて同じ目的のために同じ方向に向かって進むので、そのポテンシャルは強い。その前提は、権限の大幅な委譲と責任の分担であって、末端の従業員に至るまでアクションを取ることができなければならないのです」