2. 聖域なき変革
1986-
(1)バブル崩壊
- 1994年
- 日本のバブル経済は崩壊した。先行きは見通せない。当社は3年間集中で企業体質を徹底的に強化することを決意した。石丸社長が陣頭に立ち、活動指針として「構造変化対応要綱」をまとめた。
1980年代半ば、日本経済は超好況を享受していた。いわゆる「バブル経済」であった。
しかし、1991年に入り、株価と不動産価格の急落に端を発し、そこから一気に不況に沈んでいった。「バブル経済の崩壊」である。
- 深掘りバブル経済の崩壊
- 日本の「バブル経済の崩壊」は、1990年に大蔵省(現・財務省)が金融機関に課した土地関連融資への「総量規制」が契機となった。翌年から土地価格の下落が全国に波及し、株価も暴落を始めた。金融機関が抱える不良債権が増大し、企業への資金貸し渋りに動き、企業の業績不振が著しくなった。余剰人員削減の動きが広がり、人員削減を表す用語として「リストラ」が広く定着した。
自動車業界でも深刻な事態となり、余剰生産設備を解消する動きが広がった。1993年には有力自動車メーカーが主力工場である座間工場の閉鎖を決めた。
バブル崩壊後も日本の輸出は堅調を維持していたが、投機筋の動きなどで1993年ごろから円高が進行した。1995年4月には当時の史上最高値である1ドル79円75銭をつけるに至り、自動車・電機など輸出型企業の存亡を脅かすほどになった。
当社の業績も直撃を受けた。
1991年度決算は、創立以来一度も経験したことのなかった「減収減益」となった。90年代対応要綱に掲げる目標、「1995年連結売上高2兆円」は、到底実現できない状況となった。
それまでの自動車生産の急増に対応するため、当社は無理を重ねて巨額の設備投資、大量の社員採用を継続してきていた。これが当社の事業体質を強みから一転して、高コスト体質という弱みに変えてしまった。早急な方向転換と軌道修正、そして新規立て直しを迫られた。
この状況では、要綱もこれまでのような長期志向でじっくり構えた事業構想では役に立たない。自動車産業の存続すら危ぶまれる中、当社の改革は直ちに実行しなければならない。
これまでにもなかったほどの強い危機意識をもって、新たな要綱の策定を決めた。1996年までの3年間の活動に限定し、確実に成果を上げるべき方策に特化した内容とすることとした。
従来の要綱も、外部環境の変化にどう対処するかが主題であった。しかし今回は、外部環境の変化といっても一局面ではなく、日本経済全体の構造が変わってしまっていた。
新たな要綱も、会社の一部の強化ではなく、全体を構造的に生まれ変わらせることができるかが問われていた。これほど重い課題に、極めて短時間で必要な成果を上げなければならない。
これまでは社内各層の意見を十分に聞いた上で重要な意思決定を行う当社であったが、今回の要綱の策定に限っては、トップダウンで一気に進めた。スピードが勝負であった。
石丸典生社長は、1994年1月、当社では初めての短期集中型要綱である「構造変化対応要綱」を策定し発表した。
資料編:要綱 構造変化対応要綱

- 経営維持に必要な事業成長の確保
- 製品競争力の強化
- 円高に耐え得るグローバルな事業体制づくり
- 厳しい事態を乗り切るためのスリムな事業体質への変革