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吉岡 裕記Yuki Yoshioka
2018年にキャリア入社。美術大学でメディアアートを専攻しており、デザイン・アートを学びながら、新しい技術が人や社会に与える影響をテーマに、作品制作や展示に取り組んできた。研究者との協創を通じて、アート・テクノロジー・サイエンスを横断する表現活動を国内外で展開。現在はデンソーのインハウスアーティストとして、技術と社会・文化をつなぐプロジェクトを推進している。
熟練の職人にしか出せない技や、ベテラン社員にしかできない作業。そうした「技能」は、誰に、どのように引き継がれていくのでしょうか。そうした技能の喪失という課題に直面している代表的な例が、伝統工芸の領域です。日本各地で磨かれた技能は、後継者の不在やビジネスの縮小によって担い手が減り、いかに「残すか」を議論せざるを得ない状況が続いています。
実は、この問題は伝統工芸だけに留まりません。日本の製造業においても、よく似た構造が見られるのです。まさにデンソーでは今、この課題に向き合い、人の「技能」をデジタル化し、未来へつなぐ新たな競争力の可能性を探索しています。
その新たなアプローチの一つが、伝統技能をデータアーカイブするプロジェクト「TECHNO GRAPHICAL DATA ARCHIVE」です。デザインとアートの視点からこの活動を推進してきたデザイン部の吉岡裕記に、技能継承の道筋と解決策としての「フィジカルAI」への可能性を聞きました。
この記事の目次
製造業が抱える「技能継承」という課題
デンソーには国内外に数百か所の工場・製作所がありますが、そのいずれにも、長年の経験の中で培われた、言わば「その人だけができる動き」が積み重なっています。自動車産業は生産の効率化や自動化を推し進めてきましたが、今も人の手による「モノづくり」が深く根を張っているのが実情です。
また、それぞれの拠点では製造するものが異なるため、工程やノウハウもおのずと異なっていきます。一つの拠点で培われた知見が、他の拠点へ共有されていくとも限りません。標準化や情報共有の取り組みは社内のさまざまな部署で進められていますが、現場ごとの違いが大きいぶん、「熟練した技能の共有」は構造的に難しいままです。
デザイン部に所属する吉岡が、この課題と最初に向き合ったのは「社外での出会い」からでした。モノづくりの現場を巡るのが好きな吉岡は、各地の職人と話をする中で、技能の継承に関する問題意識を募らせていきました。
「美術大学で学んでいたこともあり、いろいろな土地を旅して、文化的なモノづくりや手仕事に触れるのが好きでした。職人さんと話す中で、技能が次の世代へ受け継がれていかないという声を各地で聞くようになったんです」
(吉岡)
その思いを一段と深めたのが、名古屋市で営まれる「有松絞り」の職人たちとの出会いでした。日本の伝統工芸の現場では、職人の高齢化が進んでいます。吉岡が出会った職人の多くも70代から90代。口伝で受け継がれてきた技能や知識が、記録も継承もされないまま失われていくケースは少なくありません。吉岡はこうした技能を、単なるテクニックとして見ていません。
「技能とは、その人の経験や感覚、もっと言えば、人生そのものが圧縮されたものだという見方もできる。そうした技能や感覚が、世代を超えて継承されずに消えていく。これはモノづくりに限らず、さまざまな分野に共通する課題だと感じています」
(吉岡)
職人との対話を重ねる中で、吉岡はある気づきに至ります。自動車産業の中にも、人の手によるモノづくりは各所に残っている。伝統工芸が抱える継承と、デンソーの製造拠点に存在する技能継承は、根本的に同じ構造ではないか──。
社外で見えてきた課題の輪郭が、社内とも重なって見えた瞬間でした。この気づきから生まれたプロジェクトが「TECHNO GRAPHICAL DATA ARCHIVE(※)」(以下、技能継承アーカイブ)です。東海道沿いの工房を訪ね歩き、口伝の技能や手技を、立体的な視点データやモーションスキャンによってデジタル化し、その技と知識を記録していくものです。
社外での探索活動として始まった取り組みは、社内で進められている技能継承の取り組みとも接続し、特に拠点ごとに蓄積された技能の共有につながっていく、最初の一歩となりました。
- TECHNO GRAPHICAL DATA ARCHIVE(技能継承アーカイブ)
※TECHNO GRAPHICAL DATA ARCHIVE(技能継承アーカイブ)は2023年から実施したロフトワーク/FabCafe Tokyoとの協働プロジェクトから始まりました。
人の技能のデータ化、そしてフィジカルAIへ
吉岡は、技能の継承には2つの方向性があると言います。一つは「人から人へ継承していくこと」。もう一つは「人から機械へ継承していくこと」です。
そして、身体性を伴いながら世界を学習していく「フィジカルAI」の観点から見れば、これらの方向性は接続できると考えました。
「人が経験を通して獲得してきた技能や知恵、その場ごとに行う判断のプロセスを、AIが学習可能な形へと変換していく。熟練者の感覚を単純なデータへ置き換えるという発想ではなく、その背後にある『なぜそうするのか』という判断の積み重ねについても、デジタルデータとして記録し、伝えていく試みだと言えます」
(吉岡)
具体的には、熟練者の技能をデジタルデータとして取得し、コンピューター上の物理シミュレーターで作業工程を再現するソフトウェアを試作しました。熟練者ごとに異なる作業の違いや工夫を比較・検証したり、これまで属人的だった判断の背景を可視化できたりします。吉岡は、その先にある可能性についても語ってくれました。
「熟練者の技能をデジタルデータ化したものに、AIを組み合わせていく。すると、これまでにない技能が見えてくるかもしれません。有松絞りであれば、職人が培ってきた経験や感覚を起点に、デジタル上で多様な条件を試行することで、新たな柄の展開や技の組み合わせを探索できる可能性がある。それらは根拠のない予測ではなく、実際に取得したデータをもとに組み立てられていくものです。デジタルとアナログのモノづくりが共存し、最先端と熟練の技能が組み合わさることで、新しいモノづくりが生まれる。そんなイノベーティブな活動ができれば自分としても面白く、意義ある価値提供へつなげていけると考えています」
(吉岡)
この取り組みが目指しているのは、あくまで職人の技をAIに置き換えることではなく、人の技を次の世代へ届けていくことに他なりません。
「新しい技術と古い技術が組み合わさることで、次世代への循環が生まれていく。それが実現できれば、協力してくださった職人への恩返しにもなるはず。ひいては、伝統工芸の現場だけではなく、他のモノづくりの現場でも可能になるでしょう」
(吉岡)
なぜ今、デザインとアートが必要なのか
技能継承とフィジカルAIは、一見、エンジニアリングの色合いが濃いテーマです。しかし、デザイン部に所属する吉岡は、このテーマに「デザインとアート」から取り組みます。
「デザインは、整理整頓をしながら課題を解決するもの。アートは、まだ世の中にない問いを立て、別軸をつくるようなものだと思っています」
(吉岡)
加えて、これからの組織活動においては、「これまでの蓄積」を問い直す重要性が増す、と吉岡は言います。たとえば、工場で量産の効率性を高めるうえで、「属人性・個別性は本当に全て不要なのか」という問いは見過ごされがちになります。しかし、その問いこそ一度立ち止まって考えるべき意義があるのです。
技能継承アーカイブもまた、その問いから生まれたプロジェクトだといえます。効率化の先で失われていく熟練者の技に、まだ語られていない価値があるのではないか。
これらの視点を、デンソーという会社全体が所有する「これまでの蓄積」に当てはめてみると、どうでしょうか。デンソーには75年以上にわたって積み重ねてきた技術と技能があり、吉岡はこれを「優れた素材」と呼びます。これらのポテンシャルを最大限に活かすためには、目の前の課題を解決する力だけでなく、「まだ気づかれていない価値があるのではないか」という問いを立てる力が欠かせません。その意味では、デザインやアートが貢献できる領域といえます。
吉岡は「一人の社員として、自分が培ってきた考え方や経験を最大限に活かし、貢献していくために何ができるのだろうか」と自問自答。その結果、デザインだけでなくアートの力で貢献していくことを社内に示すために、あえて「インハウスアーティスト」という言葉を使い、デンソー社内で名乗りました。
「自分がコミットしたい領域と会社の事業をどう接続し、自分の活動と企業が目指すことを、どう共に前進させていけるか。それを問い続けています。もちろん私だけではなく、デザインやアートのようにクリエイティブな文脈で経験を積んだ人が活躍できる場所が、デンソーにはあると感じます」
(吉岡)
個人の問いを、企業全体の「うねり」へつなげていくために
技能継承アーカイブが目指すのは、技能を記録として残すことだけではありません。記録した技能を活用し、次の創造へとつなげていくことが、もう一つの目的です。
「この活動を通じて、技術や技能への関心が高まり、その背景にある考え方も次の世代へ伝わっていく。そうした積み重ねが、お客様に喜んでいただけるモノづくりにつながると考えています」
(吉岡)
そのためには、デザイン、アート、エンジニアリング、サイエンスといった異なる領域を横断し、それぞれの知見を結びつける人材が欠かせません。 ただし吉岡は、そうした知見を持つ人材が社会の中で十分に活かされていない現実にも目を向けています。
「デザインやアートを学んだ人の中には、その経験や視点を十分に活かせる場を見つけることに苦労する人もいます。積んできた経験値を、なぜ社会の中で活かしきれないのか。そこに、個人的には難しさも感じてきました。だからこそ、企業にイノベーションを起こすためにはそうした経験値を持った人材が必要だということを伝えていくことも、自分の役割の一つだと考えています」
(吉岡)
その実践は、すでに社内で次の動きを生み始めています。
「最近ではデザイン部の他のメンバーも、僕の活動に興味を持ったことをきっかけに、自らプロジェクトを起こしていました。社外で見つけた課題を社内へつなぎ、企業活動全体の『うねり』にしていけるか。そして生まれた価値がまた社外へ戻り、循環が生まれ、5年先、10年先の事業へ発展していく。そんな形が理想ですね」
(吉岡)
一人の違和感から始まった活動が、有松絞りの職人との出会いを経て、デンソーの製造現場が抱える技能継承の課題と結びつき、フィジカルAIというテーマへとつながっていく。さらに、吉岡の歩みは、同じように自らの関心を軸に動き出す社員を生み出しています。
個人の問いが、企業の新たな価値へと育つ。この探索の先にも、デンソーのモノづくりの未来は続いていくのです。
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