現実社会の課題を解くための、擬似量子によるアプローチ

大規模かつ複雑な物流課題の解決に向けた、量子コンピューティングの新たな方向性

量子コンピュータが実用化された世界は、どのようにやってくるのでしょうか?

ますます複雑化する社会課題の解決や、最適化への応用が期待されていますが、そうした世界に進むためにはまだ長い道のりが残されているのが現実です。

いま、従来のコンピュータ(古典コンピュータ)と量子コンピュータの“いいとこどり”を実現する「量子古典ハイブリッド」のアプローチに加え、「擬似量子技術」の発展が重要になってきています。

擬似量子技術は変数も制約も多い最適化問題を解くことに向いているという特性を活かし、デンソーでは配送や物流などの実世界でのさまざまな課題解決に向け、「擬似量子技術」の応用と進化に取り組み始めています。

この記事の目次

    量子コンピュータの実際的な利用の推進

    古典コンピュータを遥かに超える計算性能によって、複雑な社会的課題を一変させると期待されている量子コンピュータ。しかし高まる期待とは裏腹に、その実用化への道のりは、一筋縄ではいかないのが現状です。

    デンソーのAI研究部 最適化ソリューション研究室に所属する入江 広隆は「量子コンピュータの理論的な可能性と実用化のギャップは、当初研究者が想定していたよりも広いものになっています。素因数分解を一瞬で解くことが多く聞かれますが、それを実現するためにはハードウェア開発の革新だけでは足りません。量子コンピュータがユビキタス(※1)に活躍するためには、古典コンピュータを基盤とした計算技術に量子コンピュータを繋げるアルゴリズム上の革新がいくつも必要だというのが現状です」と話します。

    入江は、こうした状況のなかで量子コンピュータの実際的な利用を推進するべく、「量子古典ハイブリッド」に注目。量子コンピュータの強みを活かす量子コンピューティング応用の基盤を、従来型のコンピュータによって構築する研究開発を推進しています。

    ここでいう「量子古典ハイブリッド」とは、古典コンピュータと量子コンピュータのそれぞれの強みを最大限発揮する計算方法を指しています。

    量子コンピュータは、量子力学の原理を使って特定の問題を非常に速く解くことができますが、すべての計算に適しているわけではありません。一方で、古典コンピュータは、組合せ爆発(※2)などのいくつかの課題がありつつも、さまざまな実応用における基盤の役割を果たします。

    量子古典ハイブリッドコンピューティングとは、量子コンピュータによるベストアルゴリズムと、古典コンピュータによるベストアルゴリズムを準備することから始まります。これら両方のシステムの長所を活かし、複雑な問題を、現実的な計算リソースでより効率的に解決するための方法として議論され、最適化問題(※3)や素材科学の分野での応用が期待されています。

    古典コンピューターとは?

    0と1のビットを使って情報を処理するコンピューター。現在普及しているコンピューターの多くが古典コンピューター。

    量子コンピューターとは?

    古典コンピュータのビットとは違い、0と1の両方の状態を同時に持つことのできるコンピューター。並列計算などの複雑な計算問題で高い処理能力を発揮できると期待されている。

    ※1
    ユビキタス…あたりまえのように存在し、その存在をもはや意識することなく利用できる、といった概念。例えば現在社会において「古典コンピュータ」はあたりまえのように存在するが、量子コンピュータについても同様な状況になることを想定している

    ※2
    組合せ爆発…ある問題を解く上で必要な条件や要素の組み合わせが増加することで、計算量が爆発的に増加してしまうこと

    ※3
    最適化問題…さまざまな制約の下で、数ある選択肢のなかからある観点で最適な選択を決定する問題

    量子コンピュータを模倣する「擬似量子技術」

    上記の量子コンピューティング応用の基盤を作る上でデンソーが注力しているのが、「擬似量子技術」です。擬似量子技術は、量子コンピュータ特有の問題解決手法を、高度な並列処理能力を持つ古典的なコンピュータハードウェア、特にGPGPU(General-Purpose computing on Graphics Processing Units)を使用して模倣する技術のことを指しています。

    GPGPUとは?

    主に画像や動画の処理に利用されるグラフィックカード(GPU)を、その他の計算処理にも活用する技術。高い並列処理能力を求められる機械学習や人工知能の処理などで活用されている。

    量子コンピュータは、量子ビットを使用し、量子の重ね合わせやもつれといった特殊な現象を利用して計算を行います。これにより、特定の種類の問題(素因数分解、特定の種類の最適化問題、化学物質のシミュレーションなど)に対して、古典コンピュータよりも遥かに高速に解を見つけることが期待されています。しかし、そのような計算を可能にする、大規模で性能の良い量子ビットをハードウェアに実装し、実際に運用するには、まだまだ技術的に克服されなければならない課題が数多くあります。

    一方で量子コンピュータが解くことができるであろう問題は、部分的に古典的なアルゴリズムによって模倣できます。擬似量子技術は特に、GPGPUの並列処理能力を利用して効率的に模倣することを目指すアプローチです。量子コンピュータの真の能力は再現できませんが、量子コンピュータに類似したアプローチを古典コンピュータで模倣することで、既存の計算技術を超える性能を発揮させ、現実的な問題解決における古典コンピュータにおけるベストな手法を提供できます。

    「これまでさまざまな擬似量子技術が提案されてきましたが、最適化問題の特性を理解することで、既存の数理最適化の性能を凌駕する擬似量子技術を作り上げることができました」とAI研究部 最適化ソリューション研究室に所属する三木 彰は話します。

    実問題における高速演算を可能にする「DENSO Mk-D」

    デンソーが開発する擬似量子技術「DENSO Mk-D(デンソーマークディ)」は、量子コンピュータの代表的な方式である「量子アニーリング方式」をベースにしています。アニーリング方式の量子コンピュータは「イジングモデル」を用いて最適化問題の解決に応用されています。イジングモデルとは、磁石などの磁性体の性質を表す統計力学上のモデルであり、多くの複雑な最適化問題は、イジングモデルを使用して定式化できます。

    アニーリング方式、イジングモデルとは?

    アニーリング方式は、量子コンピューティングにおいて最適化問題を解く手法の一つ。その計算に用いる数学的なモデルがイジングモデルで、問題を0と1のビットで表現し、0と1の重ね合わせ状態や量子干渉を利用して、複数の解を同時に試しながら最適解を見つけることができる。

    DENSO Mk-Dは、イジングモデルに変換された情報を必要最小限に圧縮することで参照する情報を小さくし、実際的で大規模な問題においても高速な演算が可能となっています。

    「これまでも擬似量子技術としてイジングマシンは提案されてきましたが、統計力学上の抽象的なイジングモデルに対する評価が中心でした。そしてそこでの性能は、実際の物流や交通等の最適化問題を解くことと比較し、大きなギャップがあることは広く認識されています。それに対してDENSO Mk-Dは、実際の最適化問題に応用する上で適切な性能を発揮する擬似量子技術を目指して開発され、結果として数理最適化などの既存技術を大幅に上回る性能を出すことができました(三木)

    DENSO Mk-Dは、実データを用いた実問題であれば500万変数まで、仮想データを使った実問題であれば1200万変数までの大規模な最適化問題を解くことが可能です。計算能力における変数とは、計算過程で扱うデータの値を格納するための「容器」のようなものであり、コンピュータが扱うことのできる変数の数は計算の規模を示す重要な指標のひとつです。

    一般に抽象的なイジングモデルが解けることと、実問題が解けることとの間には大きなギャップがあります。実際、100万変数以上の超大規模のイジングモデルで良い性能が出たとしても、物流や配送のような実問題では10万変数以下でしか有益な計算ができない、ということが擬似量子技術において一般的に知られた事実です。従来の擬似量子技術では100万変数規模の実問題を取り扱えたとしても、性能発揮まではできないという限界がありました。擬似量子技術には実問題に対して100万変数の限界があると認識されるなか、500万変数規模の実問題で十分な性能を発揮できることを世界で初めて確認したのが、DENSO Mk-Dの成果です。

    物流最適化に応用し、労働時間やCO₂排出量の削減に貢献

    デンソーは、擬似量子技術DENSO Mk-Dの性能を評価するため、物流センターの納入輸送網における配送スケジュールの最適化に取り組んでいます。

    愛知県西尾市には、デンソーのなかでも最大規模の物流センターである「D-Stream」があり、物流ネットワークの重要な部分を担っています。今回はD-Streamにおける実際のデータを用いて、最適化計算を実施しました。

    物流センターは、デンソーの工場から集められた製品を、顧客の要望に応じて分類し、配送する役割を果たしています。物流プロセスにおいては、1日に使うトラックの数、配送ルート、ドライバーの休憩時間、荷積み時間、配送時間の制限など、多くの要素が複雑に絡み合っており、500万もの変数を含む非常に複雑な問題です。この複雑な物流プロセスを効率化するために擬似量子技術DENSO Mk-Dを使用して、トラック配送スケジュールの最適化に取り組みました。三木は最適化の結果を次のように振り返ります。

    「結果として、DENSO Mk-Dを使って、通常1日に77台のトラックを使用する配送スケジュールを、58台まで削減することができました。トラックの台数では約25%の削減であり、労働時間では15%の削減に相当します。さらに、CO₂排出量も1日あたり322kg削減できました。今回、『D-Stream』における最適化問題は、DENSO Mk-Dによって6分間の計算時間で達成されたものです。これは従来の数理最適化技術に比べて約500倍速い計算速度となり、この成果は、擬似量子技術を使って大規模な実世界の問題を解決できることを世界で初めて示したものになりました」(三木)

    「しかし、DENSO Mk-Dがあらゆるものに対して有効というわけではありません」と三木は言葉を続けます。擬似量子技術は、今回の事例のように有望な活用方法がある一方、得意分野を特定することがまだ難しい技術でもあります。

    「今回の物流センターにおける納入輸送網の最適化問題は、DENSO Mk-Dがうまく解くことができる好事例でした。社会には物流だけでなく、大規模であり複雑な課題が多数存在しています。規模が大きくなるほどに組み合わせの数が膨大になるため、従来の数理最適化技術では対応しきれなくなると予想されています。だからこそ、最適化問題の解決に有効とされる擬似量子技術の活用を進めていくことがいま必要なのです」(三木)

    今後は社内の物流最適化、物流ビジネスへの発展を視野に入れ、まず小規模の物流での導入を検討し、実運用を目指します。

    工場やMaaS、物流から素材や製品設計への応用も目指す

    「デンソーは、アカデミアと産業の間を行き来しながら量子コンピュータの技術開発を進めてきました。今後は特にこれまでの研究成果の産業への還元を積極的に進めていきたいと考えています」と、入江は今後の展望を話します。

    デンソーは、2015年から、大関真之教授(東北大学大学院 情報科学研究科情報基礎科学専攻)、田中宗准教授(慶應義塾大学 理工学部 物理情報工学科)と量子コンピューティングに関する共同研究に取り組んできました。

    そして2019年には、理化学研究所 数理創造プログラム(iTHEMS)の初田哲男プログラムディレクターらとともに、量子古典ハイブリッド技術と擬似量子技術の研究開発に取り組んできました。入江は、最近の取り組みを次のように解説します。

    「これまで量子アニーリング技術を工場の運営やMaaS(Mobility as a Service)分野の最適化問題に適用したり、擬似量子技術の基礎技術を開発したりしてきましたが、それらの研究開発で学んだことが今回の物流分野での成果に繋がっています。今後はこれらの技術のレベルアップだけでなく、量子ゲートを活用したAIや素材開発における量子コンピューティングの応用も探っていきたいと考えています」(入江)

    そうした取り組みの一環として、2017年度からは、タイでのタクシー配車のマッチングや複合輸送(multimodal transportation)システムに関する研究を進め、2018年度からは、工場内での無人搬送車(AGV)のルート最適化のための実証実験(Proof of Concept、PoC)を行ってきました。そして2020年度からは、製品設計の最適化として量子コンピューティングのブラックボックス最適化(※4)への応用も継続的に取り組んできました。

    「量子コンピュータの活用に関してはまだ研究段階にありますが、それを実現するために必要な量子コンピューティング応用の基盤技術は、擬似量子技術をはじめとして、いまのビジネスにもインパクトがあると考えています。また製品設計のブラックボックス最適化には、最適化だけでなく量子機械学習や量子シミュレーションも必要で、本当の意味で量子コンピュータの実力が発揮できる領域ではないかとも思われています。それらの技術の発展が、これまで培ってきた擬似量子技術と融合することで、さらなる技術の発展と社会課題の解決に繋がっていくと考えています」(入江)

    社会が直面する課題がますます複雑化するなか、デンソーは擬似量子技術の研究開発を進めることで、物流や工場運営における最適化などの課題解決を目指し、これからも挑戦を続けていきます。

    ※4
    ブラックボックス最適化…設計やマテリアル探索のような最小化したい(または最大化したい)指標のうち、シミュレーションをしなければわからないような問題について最適化を行うこと。またはその効率化を行うこと

    SHARE

    https://www.denso.com/jp/ja/driven-base/tech-design/mk-d/

    ・量子コンピュータは、従来のコンピュータを遥かに超える計算性能によって、複雑な社会的課題を一変させると期待されているものの、実用化への見通しがいまだ立っていない

    ・デンソーでは、量子コンピュータ特有の問題解決手法として、GPGPUを用いて模倣する擬似量子技術「DENSO Mk-D」を開発

    ・デンソーの物流センターにおける最適化問題に適応し、労働時間やCO₂排出量の削減への貢献が示されている。そうした物流以外の多様な課題への応用も視野に入れ、今後も開発を進めていく

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