日常が揺らいだとき、私たちに必要なもの

いつもの朝、いつもの街、いつもの生活。そんな日常がある日突然、大きな災害によって揺らいでしまうことがあります。それがいつ発生するのか予想するのは難しく、もしかしたら、明日起こるかもしれません。受け入れがたい事態が唐突に起きたとき、多くの人たちはきっと呆然と立ち尽くしてしまうことでしょう。

10年前の東日本大震災。あのとき襲ってきた災害は、あまりに想定外の規模で、私たちの日常を一瞬で大きく変えました。

デンソーもまた、震災によって事業環境が大きく変化しましたが、その中で、震災発生のその時から回復へ向けた動きがあったといいます。

今回は当時、それぞれの場所で回復へ向けて行動した人々に話を伺いました。
地震発生直後から復興、そして今につながる東北との関係を順を追って話を聞く中で、それぞれの話の中から回復へ向けたいくつかのキーワードが見えてきました。
まずは発生当日の本社。最初に見えたキーワードは『受け入れること』でした。

受け入れる“備え”があったから、いち早く動けた

2011年3月11日14時46分。マグニチュード9.0、最大震度7。日本国内での観測史上最大の地震が発生しました。かつて誰も経験したことのない、まさに未曾有の大災害です。

震災発生直後のデンソーの対応について、現在総務部に所属する斎藤功と袋井和則に話を聞きました。当時2人は、災害対策の最前線で本部の設立に携わっていました。

本社では、地震発生1時間後には災害対策会議が開かれ、すぐさま、日本国内に勤務する約6万人の社員全員に安否確認の連絡を取り始めました。また、備蓄していた支援物資の現地への輸送も、翌日には始まりました。
斎藤、袋井はこの時の動きに対して、「過去の災害から、有事の際にいち早く動くための心構えである『どんな震災でも、まずは現状を受け入れる精神』と、その準備があった」と語ります。

被害の大小にかかわらず、自然災害は防ぎようがありません。これまでにもさまざまな災害がありましたが、全国各地に工場や営業所を持っているデンソーは身を持ってそれらを経験しています。その上、『そろそろ東海地方でも大きな地震が来るのでは』とも言われていました。こうした過去の学びの蓄積があり、“いつ起こってもおかしくない”という心づもりがあったからこそ、いち早く動くことができたのだと思います(袋井)

地震発生直後は『どうしよう、えらいことが起きている』と感じましたね。でも、不安を抱えても、パニックになっても、やるべきことは変わりません。震度5強以上の地震が発生したら災害対策本部を設置し、安否確認と自社およびグループ会社、顧客や仕入れ先等の被害状況を確認していく。そういった災害時のマニュアルが整っていたからこそ、震災の渦中で心は動揺していても、落ち着いて行動に移せたのだと思います(斎藤)

可能な限りの準備をし、受け入れる体制を整えておくこと。そして、しなやかに事態を受け入れる。それが次の回復への第一歩なのかもしれません。

次に見えてきたのは、『つながり』の力でした。

人とのつながりがあってこそ、ビジネスは成り立つ

大地震が起きた翌日の3月12日、福島第一原子力発電所1号機で水素爆発が発生。その日の午後、災害対策本部に「避難者を受け入れる場所を提供してもらえないか」という一本の電話が入りました。

デンソーが新たに作った工場(現デンソー福島)が所在する福島県田村市の市長からの依頼でした。デンソーは電話口でただちに承諾。地震発生の前日に完成したばかりの工場を、近隣住民たちの避難先として開放することを、わずかな時間で判断しました。

斎藤、袋井と同じく現在総務部に所属する伴野孝博は、当時、避難者の受け入れを担当しました。伴野は自ら志願して、その役目を買って出たといいます。

東北の方々とは仕事でつながりがありました。とても魅力的な人ばかりで、そんな彼らが困っていると思ったら、なんとしても役に立ちたかったんですよね。

まだ東北は雪が散らつく時季。工場内は、寝泊まりするには室温が低かったので、発泡スチロールや段ボールを敷き詰めたりして、なんとか寒さをしのげるように工夫しました。避難所は快適とは言い難かったと思いますが、行政の人たちと協力しながら、環境改善に取り組みました(伴野)

工場にやって来た避難者は、総勢で約2,000人ほどです。なかには介護施設から来られた避難者もいて、そういった方々を比較的温かくて過ごしやすい食堂へ案内したり、そのような判断は全て、その都度、現場にいる人間同士で相談して素早く決めていきました(伴野)

伴野のように「東北の人たちの役に立ちたい」という想いを持った社員は、当時のデンソーの中にも大勢いました。その気概に応えるかたちで、デンソーでは震災直後から延べ600人を超える社員を“業務扱い”で被災地に派遣。現地ではボランティアとして、行政やNPOと連携しながら、支援物資の運搬や瓦礫の撤去を手伝いました。現在、工機部所属の日下篤史も、このボランティア派遣に参加した一人です。日下が派遣されたのは宮城県の牡鹿半島でした。

個人でも何か支援できないかと被災地に乗り込もうと思っていたところ、社内でボランティアの募集を見かけてビックリしました。『1週間、社員を業務扱いでボランティアに派遣する』という決断に、震災復興に対する本気度が見えた気がします。

ボランティア派遣で出会った東北の人たちとは、今でも交流があるんですよ。3月になると、現地の漁師さんたちの元を訪れて、ワカメやホヤの漁の手伝いをしています。彼らに会うたびに自分も元気をもらえるので、毎年行くのが楽しみですね(日下)

完成したばかりの新工場を避難所として貸し出し、社員を積極的にボランティアに派遣する。こうした判断は、単なる復興支援というものではありません。

全国各地に工場を持つデンソーは「地域に支えられてこそ自分たちの生産が成り立つこと」を熟知しています。災害が起きた際には、地域の人々と共に困難を乗り越えることが、デンソーにとって不可欠であり、何よりも大切にしてきた信念です。
『つながり』の力がなくては回復へと向かえないということがはっきりと見えたように思います。

やるならとことん、全力でやり切る

2011年4月、新工場に一時避難してきた方々が仮設住宅に移り始め、工場をようやく稼働へと進められる目処が立とうとしてきたとき、古くから付き合いのあった現地のメーカーから、「工場が原発の危険区域に入り、立ち入ることさえできなくなってしまった。なんとか力を貸してもらえないだろうか」と連絡が入ったのです。デンソーは、工場の一部を彼らに貸し出すことを決定しました。

とはいえ、製造する製品が全く異なるため、完成したばかりでありながら再工事が必要でした。このプロジェクトを担当したのが、当時、施設部に在籍していた舟橋正人です。舟橋は「再工事の負担は、買ってでもやるべきことだったと思います。自社も他社も関係なく、協力しなくてはいけないタイミングでした」と語ります。

いくらデンソーでの生産が滞りなくいっても、彼らの作る製品がひとつでもそろわなければ、自動車は完成しません。だからこそ、協力は必然なことだと感じました(舟橋)

舟橋は、身を切っての工場貸し出しは妥当だったと振り返ります。

震災の話から少しズレますが……私は以前、海外の工場建設の担当になったことがあります。その際、現地の調査項目として最優先に置かれていたポイントが、『現地で働く人が食事に困らず働けそうか』『現地住民とうまく連携がとれそうか』といったものだったんです。それを見たときに『デンソーは人を大切にする会社なんだな』と思ったんですよね。震災の時も、そうした姿勢を社員一人ひとりが持って、自律的に動いていたように感じます(舟橋)

今も、デンソー福島の床には当時の工事跡が残っています。当時のことを忘れないために、あえて残しているのだそうです。工場の貸し出しや全社を挙げてのボランティア活動、それのどれもが、デンソーにとっては特別なことではありませんでした。
「困っている人がいたら全力で助ける」――こうした企業文化があったからこそ、復興活動に全社をあげて取り組めたのかもしれません。

やると決めたらとことん全力で助けあう。これも大事な予測不能な事態を乗り切る要素であることを感じ取りました。

乗り越えるために、まずは受け入れよう

こうして、東日本大震災における当時の動きを振り返ってみると、その共通項から、不測の事態で強くあるためのヒントが隠されているように感じました。

受け入れがたい状況をしなやかに受け入れて、いち早く回復に向けて行動することーー近年、こうした概念は「レジリエンス」という言葉で表現され、「弾性、復元力、回復力」と訳されることもあります。

これからも私たちの前には、まったく予測のできない事態が、突如として何度も現れることでしょう。私たちは、可能な限り未来を予測し、準備をしていきたい。しかし、予測不能な事態は私たちの想像を超えてくる。だからこそ、何が起こっても一人ひとりが怯まずに、人を第一に考え、しなやかに、そして大胆に行動できるように。

人にも、社会にも、地球にも。しあわせや悲しみを分かちあうことができれば、その循環が持続可能な社会をつくっていく。そして分かちあいとは、与える力だけでなく、受け入れる力も等しく重要であることに気づくことができました。