4. 世界への事業強化
1986-
(1)海外生産の本格展開
- 1985年
- あまりにも急激な円高であったが、当社はこれを事業展開のチャンスとして捉えた。1985年には海外本部を設置し、日本のカーメーカーに先回りする形で、世界各地域への思い切った生産進出を進めた。
急激な円高が進行した1980年代後半、日本の自動車部品メーカーの海外事業は、大きな方針の決断を迫られていた。海外現地生産の本格化である。
米国では、低燃費の日本車人気の高まりに対抗するため、米国ビッグスリーが、内製部品を日本の自動車部品メーカーへの外注に切り替える動きを加速していた。これを受けて、当社製品の対米輸出も急増していた。
しかし、1985年から始まった急激な円高は、輸出採算を大幅に悪化させた。当社も為替リスク回避のため、本格的な米国現地生産を迫られた。
アジアでは、モータリゼーションの本格化で主要国の自動車生産台数が急増していた。各国での自動車部品需要も急速に高まった。発想を新たにして、アジア地域として広く捉え、域内全体での最適生産体制づくりが模索され始めた。
欧州では、市場統合の動きに対応して、日本カーメーカーがいよいよ現地生産に動き出した。当社も欧州での供給戦略と現地生産体制の構築が急務となった。
こうした状況変化に対して、当社は速やかに動いた。
まず1985年に海外事業部門と海外営業部門を合体し、海外戦略の総本山として「海外本部」を設置した。両部門のコミュニケーションを円滑にするとともに、海外事業に営業的な発想を取り入れ、事業拡大の加速化を図った。
当社には「待ち受け営業」ともいうべき基本スタイルがあった。この時期、日本のカーメーカーも海外現地生産の検討を始めていた。これに対し、当社はそれよりも一歩先に現地生産に着手し、先回りしてカーメーカーの進出先で供給体制を整えておくという方針で臨んだ。
こうして、為替リスク回避という事情はあるにせよ、各地域の状況や特性を十分に考慮し、当社の強みを活かす形で、1980年代後半から、当社は北米、豪亜、欧州の各地域へ、思い切った海外進出を進めた。