6. 事業領域の拡大
1986-
(4)通信事業での苦闘
- 1994年
- 通信技術は将来、車の情報化に不可欠になると考えて、当社は無線機、自動車電話を経て携帯電話事業にも参入した。1994年には独創的なヒット商品も送り出したが、価格競争の激化で撤退した。

1960年代初め、当社では将来の社会動向を先読みして研究開発に取り組むという気風が芽生えつつあった。
そういう中に、「将来のクルマは通信機能を持ちインテリジェント化する」という考え方もあった。そのツールとして、アマチュア無線機に挑戦しようという動きが現れた。
これには高周波の受発信という高度な技術が必要であった。製品化には大変な苦労をしたが、1973年にはカートランシーバー(アマチュア無線機)の第1号機を発売した。以後、9機種を発売したが、ブランド力も販路も弱く、販売台数は伸びなかった。
- 深掘りカートランシーバーの開発
- 1970年代初め、当社がカートランシーバーの開発に乗り出した頃は、高周波受発信技術についての参考書もなく、技術者たちは必死に探した基本資料を手分けして読み漁って研究に没頭した。カートランシーバーの試作品を組み立てるたびに、社内のアマチュア無線マニアたちにモニターを依頼し、実用面での性能チェックを繰り返した。
1973年に第1号機を発売すると、それまで冷ややかだった社内の雰囲気が一変し、営業もサービス技術者もアマチュア無線免許を取得して販売に臨むなど、会社を挙げての取り組みとなった。
1976年に発売した後継機(ND-140)は、当社として初めての「グッドデザイン賞」を受賞した。とかく性能の良さや耐久力が特徴であった当社製品が、ようやく家電メーカー並みのデザインの良い製品を完成するまでになった。

1982年に電波法が改正され、パーソナル無線機の発売が許可された。
カートランシーバーで経験を積んでいた当社は、パーソナル無線への参入を決意した。1983年に第1号機「ハローコールPX9000」を発売した。無資格で誰でも使えることもあって、発売当初から人気を呼んだ。
後継機種も発売したが、急増した需要もやがて一巡した。一方で、自動車電話端末が商品化される見通しとなってきたことから、1985年、当社はパーソナル無線事業から撤退した。
1985年、通信事業が自由化された。NTT以外の企業も、通信事業に参入できるようになった。
これにより自動車電話の需要が飛躍的に拡大することが予想され、当社のパーソナル無線の開発チームが自動車電話の開発に取り組むことになった。当社としては、自動車電話は将来予想される車の情報化には不可欠であり、何としても確立しておきたい技術分野であった。
1987年に当社の自動車電話の第1号機が「トヨタ・マルチビジョンシステム」に組み込まれることになった。これは安全運転の観点から、受話器を持たずに通話ができ、後のハンズフリー機能を先取りするものであった。
自動車電話の普及は、移動体通信の急速な技術革新を促した。これにより、さらに自由度の高い携帯電話の利用者が急増することが予想された。
当社は1987年、携帯電話開発の「Fプロ」を立ち上げた。携帯電話関連の技術の壁は厚く、開発は困難を極めたが、1992年には第1号機「トーキョーフォンT-64」の発売にこぎつけた。
1994年、郵政省(現・総務省)は携帯電話の販売を自由化した。
当社はこの機会を捉え、徹底的な差別化戦略で臨むこととした。他社よりも斬新なセールスポイントを持った端末を開発し、それによって当社の弱点であった知名度を高めることも目指した。
- 深掘り携帯電話端末の差別化方針
- 1994年の携帯電話販売の自由化に対応して、当社の新機種の差別化は、低価格化よりも小型・軽量化路線をとり、「世界最小・最軽量」を実現することを目指した。そのため、開発に当たってはデジタル回路の高集積化、高周波部品の小型化、超小型チップの採用などを進めた。
また、自動車部品メーカーらしさの演出として、携帯性や車両搭載性が良く、車内での使用性に優れることなども目標とした。デザインについては、若手社員の意見を積極的に取り上げた。一般ユーザーの目を引くため、これまでにない斬新なデザインを選んだ。

1994年、「ツーフィンガー」と呼ばれる「T-204」が発売された。これは画期的な小型・軽量化を実現していた。さらに、縦型のユニークなデザインが大きな反響を呼び、販売台数も伸びた。
続いて1995年に発売された「T-209」は、競合激化を見越し、今度は一転して低価格化を追求した。販売台数は、1年で目標の2倍となる25万台を売り上げる大ヒットとなった。

その後もユーザーのニーズに応え、次々と新機能搭載の機種を製品化していった。それとともに、当社の情報通信技術の蓄積も進んだ。先進技術を求めて、米国に拠点も開設した。
- 深掘り米国への進出
- 1991年、米国カリフォルニア州に通信技術研究所「LAラボ」を開設した。その目的は、通信分野で先行している米国の先端情報を収集し、日本に送るとともに、米国での新規通信事業の可能性を探ることであった。
当時、米国の移動体通信市場は、電波の仕様、通信事業者の数、自由化の度合いなどの点で、日本と全く様子が違っていた。それでもLAラボを開設したのは、日本の通信市場環境もいずれはこうなると予測してのことであった。
LAラボによる調査結果を踏まえて、1997年には米国カリフォルニア州に携帯電話の生産会社である「デンソー・ワイヤレス・システムズ・アメリカ(DWAM)」を設立した。
しかしその後、携帯電話市場は激しい低価格競争に陥った。負荷が大きくなり過ぎる前に、当社は撤退を決断した。