かすかな光を信じて。QRコード開発者が越えた壁と、アイデアの源泉

QRコード30周年記念インタビュー

  • はら まさひろ原 昌宏

    1957年、東京都生まれ。大学卒業後、80年に日本電装(現・デンソー)入社。94年にQRコードを開発し、2001年、分社化に伴いデンソーウェーブに転籍。14年に欧州発明家賞、23年に恩賜賞・日本学士院賞を受賞。現在、エッジプロダクト事業部の主席技師。QRコードと命名された8月8日は、自身の誕生日。

今や世界中で使われ、日常生活で見ない日はない「QRコード」。2024年、誕生から30年を迎えました。開発したのはデンソーウェーブのエッジプロダクト事業部主席技師、原 昌宏。大容量の情報を素早く、正確に読み取ることをめざし続けた当時を振り返り、乗り越えた苦労、そしてアイデアの源泉について明かします。

この記事の目次

    先を読む上司との出会い。ハード屋がソフトを猛勉強

    ──まず、技術者を志したきっかけを教えてください。

    子どものころから、ものづくりが好きだったんです。東京で生まれた私は2歳の時、親の転勤で大阪へ引っ越し、中学生になるころに東京に戻ってきたのですが、学校で関西弁をしゃべると笑われてね。人としゃべるのが嫌になって、プラモデル作りに精を出すようになりました。

    とくに、戦車のプラモデルを作る時、迷彩色の塗装でオリジナル性を出すのがとても楽しくて、うまく作れば周りから「すごいね」と褒められるのもうれしかったですね。そのころから無意識のうちに、他にはない「オンリーワン」をめざしていたように思います。

    あと当時、感動したことが二つあるんです。

    原 昌宏

    ──それは何ですか?

    一つめはテレビが白黒からカラーになったこと。二つめはアポロ11号の月面着陸です。「技術さえあれば何でもできるんだ」と子どもなりに実感した出来事でした。さらに父が、電子部品の製造にまつわる特許を取った技術者だったこともあって、身近な職業として技術者を志すようになったんです。

    ──めざす将来像が固まり、その後も学び続けていたのですか?

    そうですね。大学では、工学部で電気電子工学を専攻し、電圧や電波などの連続した信号を扱う「アナログ回路」について学んでいました。高校では苦手だった国語や社会の授業もありましたが、大学に入ると自分の好きな学科ばかりで、とても楽しくなってきて。「勉強の虫」になって、毎日一番前の席で授業を聞いていました。

    ──なぜ、デンソー(当時、日本電装)に入社したのでしょうか?

    技術志向の会社であることが、私にとっては魅力的だったんです。家電メーカーの入社試験も同時に受けていた中、最初に内定を得られた日本電装に入社し、バーコードの研究開発部門に配属されました。

    実は、配属に関する人事部との面談では「車以外の開発を担当したい」と言ったんです。きっと、当時は車に関わる仕事をやりたい人が多かったと思うので、珍しいことだったのではないでしょうか。

    ──配属当時について、印象深い出来事を教えてください。

    配属早々に「ソフトはできるか?」と上司に聞かれた時、「私はハード屋の設計者だからできません」と答えたところ、「10年後にはコンピューターの時代になる。ソフトができない者は必要ない」とはっきり言われましてね。厳しかったですよ(笑)。

    ですが私自身も、これから先はソフトが必要なのかもしれないと素直に思ったんですよね。また、社内で開発が進んでいた音声認識や文字認識には関心があったので、ひそかに独学でソフトを猛勉強しました。

    原 昌宏

    そんな折、今度は上司から「この先、スーパーのレジでバーコードを使う時代になるから、バーコードリーダーを開発するように」と命じられたんです。私も開発に加わり、やがてその製品はコンビニや工場などさまざまな場面で使われるようになりました。今思うと、先を読める上司のもとで働くことができたのは、ありがたいことでしたね。

    原 昌宏
    原がQRコード開発時に所属していた課のメンバー

    コードの黄金比率を求め、途方もなく続く作業

    ──QRコードの開発はどんな流れで始まったのですか?

    開発が始まったのは1992年。バブル崩壊で先行きが不透明な中、会社としても何か新しいことをやらないと、という雰囲気があって。同時に、自動車業界は大量生産から多品種少量生産へとシフトし、自動車部品の出荷現場では多くの情報を取り扱うようになったんです。

    でも、一つのバーコードには20文字程度の情報しか入らない。現場の従業員は一つの製品に対して、10個ほどのバーコードを並べて懸命に読み取っていました。ものをつくるより、読み取り自体が仕事みたいになっていて。それでは効率が悪いし、さらに、バーコードが油で汚れると読み取れなくなるから「どうにかしてほしい」という要望を受けたんです。

    原 昌宏

    ──開発でもっとも重視したことは。

    大容量の情報を素早く、正確に読み取ることです。そのころアメリカでも同様の研究が進んでいて、「それを使えばいいじゃないか」という意見も社内にありました。ただ、アメリカはより多くの情報を入れることに重きを置いているようで、精度としては10回中1回読み取れる程度。それなら、今から開発を始めても勝負できるはずだと思いました。

    ですが、成功する自信は、半々でしたね。

    ──最大の壁は何だったのでしょうか?

    バーコードと同等の読み取りスピードを実現することに、苦しみましたね。2次元コードはバーコードに比べると形状が複雑で、多くの情報を扱うので、どうしても読み取りが遅くなりがちです。

    ──どう乗り越えようと?

    そこで登場するのが、ビールです(笑)。

    原 昌宏

    ──え!?ビールですか???

    はい(笑)。冗談のように聞こえると思いますが、本当のことです。何が伝えたいかというと、要は、いかに“リラックスするか”ということ。

    当時、「脳からアルファ波が出てリラックスしている時に、アイデアが浮かびやすい」という話があり、同僚がアルファ波の測定器を貸してくれたんです。家に持ち帰り、どういう場合にアルファ波が出るのか調べました。お風呂に入った時、ビールを2杯飲んだ時、屋外で緑を目にした時……。一番出たのが、ビールを適量飲んだ時だったんです。私の場合はコップ2杯ですよ!

    そうしたらね。ビールを飲んだ休日に、電車に乗って窓の外を眺めていると、ビルが目についたんです。上層階だけ、窓の配置が下層階と違うなと。そこから「これがQRコードだという独自の目印があれば、素早く読み取ることができるのでは」という考えが浮かんだんです。

    原 昌宏

    ──それが現在QRコードの正方形の3隅にある、小さな正方形(切り出しシンボル)ですね?

    そうです。独自の目印を付けたらいいと気づきましたが、一体どんな形にすればいいのか。複雑な形状にすると簡単に区別できるけれど、読み取りに時間がかかる。そこで、いち早く処理できるのは、バーとバーの間の幅のような、一元的な比率だなという話になり、世の中にめったにない幅の比率、「黄金比率」を割り出そうとしました。

    そこからは、仕事や生活で接するあらゆる文字などについて、幅の比率をひたすら調べる日々でした。会社に行くと、朝から晩まで新聞や雑誌などを1ページずつ、写真に撮る。夜、帰る時には比率パターンの計測ソフトを稼働させておいて、翌朝に結果を見る。夏の時期にコンピューターを24時間使いっぱなしにしてクラッシュし、ためたデータが全部消えていたこともありましたね……。

    原 昌宏
    当時の様子について、社内を歩きながら説明する原

    企業間の共創で一気に普及。特許開放は正しかった

    ──黄金比率を探し求める作業が続き、精神的に大変だったのでは。

    そんな比率があるのかどうかもわからず、不安な毎日でした。でも、開発を共に進めていた後輩と2人で夢を語り合い、乗り越えてきたんです。「新たなコードが世界中に広がり、ありとあらゆる人たちに使われる未来になったら楽しいだろうね」「このコードはすごい、と言わせたいな」と。

    当時は「日本、ましてや自動車部品メーカーに、世界に通用するコードなんて作れない」という声がよく聞こえてきて、そう思っている人たちを見返したいという反骨精神もありましたね。

    原 昌宏
    幅の比率をひたすら調べた部屋を指さす原

    ──光が見えたのはいつごろですか。

    作業を始めておよそ半年後でしたね。黒と白の幅が「1対1対3対1対1」という黄金比率にたどり着きました。探し当てられてよかった……と、胸をなでおろしましたよ。この比率との出会いなしに、QRコードはなかったと思います。

    黄金比率のQRコード
    黒セルと白セルの割合が1:1:3:1:1で並ぶ黄金比率のQRコード

    ──そのような流れでQRコードは世の中に誕生したのですね。しかし、QRコードの特許を開放したのはなぜだったのでしょう。

    いくらいいコードができても、周辺機器などのインフラが整備されていなければ自由に安心して使えませんよね。なので、特許を開放して他社にもインフラ整備を進めてもらうことで、いち早くQRコードを普及させようと考えたんです。

    ──今でこそ、会社の垣根を超えた「共創」が各業界で進んでいますが、30年前にその考えがあったのですね。

    時には素直に、周りの力を借りることも必要ではないでしょうか。用途開発って、その仕事や現場をよく知っていないとできないんですよね。それなら詳しい人に任せ、われわれはものづくりでお客さまをサポートするという感じで、当社の得意パターンに持ち込んだほうがいいと思いました。

    ──あらためて、特許開放は間違っていなかったと?

    私はそう確信しています。QRコードがここまで普及したのは間違いなく、さまざまな企業が参入し、共創してきたからです。今でも企業同士の共創によってQRコードは進化し続けています。私が好きな囲碁でもそうですが、欲張りすぎると負けるんですよね。どんなことでも、相手にちょっと与え、その相手より少し多く取る。そんな考え方がいいのかもしれません。

    そして、エンジニアのひとりとしては、自ら開発した技術や製品がより多くの皆さんに使われ、社会に役立つことが重要だと思いますし、それがなによりの喜びですね。

    原 昌宏

    脳をリラックスさせて。よい発想は生活や趣味から

    ──QRコード誕生から30年。この広がりは想像していましたか?

    世界中で使われることを夢見ていましたが、正直、これほどの普及はイメージできていませんでした。業務用にとどまらず、一般の人々の生活に浸透し、決済にまで使われるとは。一番驚いたのはケニアでも決済に使われたり、バス停にQRコードが付いていたりと、アフリカにまで届いていたことですね。

    QRコードの何がいいかっていうと、誰でも自由に作ることができるということ。私たちが開発を始めたころはICカードが出始めており、「紙に印刷するようなQRコードを今から作っても10~20年しかもたないのでは」と言われていました。でも、今でも使われています。ICカードは、誰でも作れるわけではないですからね。

    最近、私はよく言ってるんですけど、ローテクほど強いものはない、と。30年前の技術ですけど、人が使い慣れたローテクだからこそずっと使われ続けてるんですよ。

    ──開発の成功には、企業ならではの風土や環境も影響していたのでしょうか?

    なぜQRコードを作れたのかとよく聞かれるんですが、トヨタ自動車から分社化し、その血を受け継いだ当社の従業員たちには「新規事業スピリッツ」が脈々と受け継がれているからだと思います。私が入社当時にお世話になった、先を読める上司もまさにそうですよね。

    原 昌宏
    当時の上司や共に開発してきた仲間を思い出しながら

    もう一つは、社内に工場があり、コードが油で汚れたり破損したりする課題を直視できたからではないでしょうか。もし私がIT企業でコード開発に携わっていたとしたら、QRコードにはたどり着いていなかったでしょうね。

    原 昌宏
    デンソー社内には当時をしのばせる工場がまだ存在している

    ──大きな成功を収めた原さんですが、燃え尽きることはないのですか?

    それはないですね。人生の半分近くをコードに費やしてきましたが、今でもお客さまの現場に足を運び、会話することが好きなんです。さまざまな要望をいただき、解決していくことが私の喜び。昔は、人と話すのが嫌だから技術者になったはずなんですけどね(笑)。

    原 昌宏

    ──最近ではコードに対し、どんな要望がありますか?

    2024年1月の能登半島地震でネットワークが使えなくなったことから、医療用データベースとしてQRコードを使いたいというニーズが高まってきました。たとえば救急車で運ばれてきた人や、避難所で具合が悪くなった人に、医師が緊急で対応する時、患者の電子カルテや心電図などをQRコードでいち早く確認できれば便利ですよね。将来的には医療現場をはじめ、社会課題の解決にいっそう役立てていけたらうれしいです。

    ──最後に、社内外の後進たちにメッセージをお願いします。

    まず、好奇心と感動を大切にして、日々を過ごしてほしいですね。好奇心は新しい知識をもたらし、感動はいろいろな体験を促し、それらが融合することで想像力が生まれます。

    そしてアイデアというものは、じっと机に向かって仕事をしている時よりも、日常生活や趣味の中から生まれると思っています。脳がリラックスした状態だと、過去の経験などが結びついて、いい発想が生まれるんでしょうね。

    その上で、失敗を恐れないでください。私自身、うまくいかないことばかりでしたが、実際に行動に移してしくじったとき、そこには次へのヒントが隠されているんです。失敗することはむしろラッキーなんだよ、と伝えたいですね。

    原 昌宏
    QRコードを開発したころの原。志は当時のまま、今もなお挑戦し続けている

    ※ 記載内容は2024年5月時点のものです

    キャリア・生き方

    執筆:PR Table 撮影:BLUE COLOR DESIGN

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