1. 苦難の船出
1949-
(1)創立の覚悟
- 1949年
- 日本電装が1949年に創立された。初代社長の林虎雄は、豊田喜一郎から経営者としての心構えを諭された。そして事業の成功を託され、覚悟を固めた。

1949年12月16日、「日本電装株式会社」が創立された。
企業再建整備法に基づいて、トヨタ自動車工業の電装品工場が分離・独立した。資本金は1,500万円、従業員数は1,445人、代表取締役社長に林虎雄、取締役に鈴木隆一、岩月達夫、白井武明、監査役に井村栄三が就任した。
参照:分離・独立時の職制表
- 深掘り創立時の取締役・監査役
- 当社創立時の取締役・監査役は、電装品部門の自立を構想していた豊田喜一郎が自ら選任し、これ以上は求められない布陣であった。
鈴木隆一は、豊田自動織機の自動車部の頃から電装品技術部門を支えてきた。
岩月達夫は、刈谷の本社工場がその前身の「トヨタ自動車工業電装工場」になる前の1948年8月に、事務系トップとして、また経営全般を担当する副工場長として赴任してきた。
白井武明は、豊田自動織機製作所の自動車部が発足する以前から、喜一郎の指揮の下でエンジンの開発に携わってきた。
井村栄三は、トヨタ自動車工業入社後、中国天津市に設立された北支自動車工業に出向し、終戦後トヨタ自動車工業に復職して、電装工場に配置されていた。


初代社長に就任した林虎雄は、紡織機の技術者であった。本人によれば、自動車部品は素人であったが、豊田喜一郎から打診され、自ら新分野への挑戦を選んだ。
林は独立前に喜一郎に呼び出され、事業を分離することへの想いを伝えられた。
「電装品というのは性能を重視する難しい仕事であるだけに、よほど技術的に努力をして立派なものを作らないといけない。それをトヨタの刈谷分工場としてやらせておくと、どうしてもまあできる範囲でと甘え、真剣に競争する、戦うという気持ちが生まれてこない。これが分離・独立して同業者がたくさんあると、何とか会社を成り立たせるために、そこではじめて真剣に努力していい品物が安くできるという状態が生まれてくる」
さらに林は、喜一郎から経営者としての心構えを聞かされ、激励された。
「分離・独立してやるということは、トヨタのみならず、他の日本の自動車メーカーへも品物を納めるということだ。そうなると、納め得るような品物を作らなきゃだめだし、そういうことで日本の自動車業界全体のお役にも立つ。そういう精神でおやりなさい」
そして、林はこう言い渡された。
「電装の社会的信用は何もないのだから、トヨタの信用でスタートするほかはない。トヨタの信用でやる限りは、トヨタの信用を食いつぶしてもらっては困る。社名もトヨタを使うのは遠慮してほしい」
これについて、林は後に語っている。
「トヨタ自動車工業の社長としては当然すぎる言葉であったが、私たちにとっては忘れることのできない励ましの言葉でもあった。私たちの決意にふんぎりをつけさせてくれた喜一郎社長に、今もって感謝している」
分離・独立の決定を受けた後、社名を巡って幹部を中心に議論を行った。「トヨタ」を冠することができないため、「刈谷電装」「愛知電装」「東海電装」など、数多くの候補が挙がった。
しかし、いずれもローカル企業のイメージが強かった。そのうち「トヨタ以外にも販路を広げ、海外にも飛躍できる企業として考えよう」という意見が出てきた。この意気込みが幹部たちの脳裏に刻まれ、社名は「日本電装」とすることに決まった。
こうして当社は船出した。